私の眠る場所
写真を載せたかったけれど、見つけられなかった私の眠る場所(まだまだ部屋の整理が必要・・・・苦笑)
いわゆる「散骨希望の場所」
うちの家族はお墓を持たない。宗教上だとか、ではなく、ただ、自然に還るということと、お墓を持つという事に意味を感じないという理由だ。
なので、私もお墓を持とうとは思わない。
親からの影響というよりも、それもあるかもしれないけれど、うちの家族のように、「風来坊」な人たちにはお墓を管理するというのは到底難しいことなのだ。兄弟がいても、やはりお墓の問題、というのが上がってきたら、海外に住む自分はアウトだ。そして自分の子供にも、縛ることはしたくない、というのが一番の思いかももしれない。
とはいえ、ここ数年まで、ついつい「故人に会いに行く場所」というのを模索していた。いわゆるお墓。何がきっかけだったか忘れたけれど、満月のある夜、ふと、私は父のことを思い出した。父が荼毘に付された夜、きれいな大きい満月が太平洋一面を照らしていたのを思い出したのだ。
そう、毎月父は顔を出す。こんな日本から遠い場所でも。満月を見ると、父に語り掛けたくなる。父のお墓は満月。
私の眠る場所は、この国に来た時、車で気ままな一人旅をしたときに見つけたビーチだった。そこは、小さな小さな「漁村」だった。そこの少し先のビーチが、「私の眠る場所」
今までに見たことのない、太陽のまぶしさと海の輝きに、目を細めてしまうほどだった。その向こうには、天国がありそうな、そんな景色。その時に、「ここだ」と思った。砂浜の後ろのほうにある大きい岩に腰掛け、ただただ波の音を聞きながら、まぶしい海の水面を眺めていた。吸い込まれそうだった。時も忘れてしまうほどだった。
贅沢な時間だった。予定も何もなくフラッと立ち寄った海に私は魅了されたのだ。
私は今、そのビーチのずうっと向こう側に住んでいる。
ここから車で、多分4時間以内でいけるだろう。
「眠る場所」を決めてから、私は何かにつけ友達や家族、そして子供に言っている。だから、周りの人は、私がどこに行くのか、を知っている。
そして海は続いている。子供がどこに住むのかを決めたとき、海のある町であるならば、いつでも私に会える。多分。あのビーチにこだわらなくとも、会える。ただ、散骨するとき、だけはこだわって欲しいと願うけど(笑)
私は海派、山派と聞かれると、やはり海派だ。海の近くで生まれ、育ち、どの町に住んでも海があった。海外に来てもそれは一緒だった。
あの輝く海に眠ることができれば本望であり、それ以外の幸せはないと確信している。
だから、その日まで、私はあの海の輝きと同じくらい元気に生きていたいと思う。