心を解き放つとは素直な心であること
松下幸之助 一日一話
11月21日 心をときはなつ
自由な発想の転換ができるということは、指導者にとってきわめて大事なことである。しかし、発想の転換ということはさかんに言われるが、実際はなかなかむずかしい。みずから自分の心をしばったり、せばめている場合が多いのである。
だから大事なことは、自分の心をときはなち、ひろげていくことである。そしてたとえば、いままでオモテから見ていたものをウラから見、またウラを見ていたものをオモテも見てみる。そういったことをあらゆる機会にくり返していくことであろう。そうした心の訓練によって、随所に発想の転換ができるようにしたいものである。
https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より
松下翁は、なぜ指導者にとって大事なことは「自由な発想の転換ができること」であると考えているのでしょうか。その背景には大別すると、「自分を使いこなす」「小事で大事をつかむ」という2つの意味合いがあるのではないでしょうか。
先ず、「自分を使いこなす」ことによる自由な発想の転換について、松下翁は以下のように述べています。
ぼくは幸いにして小さい頃から食うに困るような状態が続いた。だからまあ難儀したときのことを思い出したら結構やなという感じが出てくるわけや。普通やったら死んでもしかたがないところを助かったんだから結構やなと、こう思う。
これだけ助かる以上は、ぼくは運が強いんやなと、運が強いんやから、何かやったら成功するなと、こう何でもいいように、いいようにとってきたわけやな。それがプラスになっていると思う。
たとえば、十五歳のとき、船から海に落ちたことがあった。そのときに、えらい災難にお遭うた、着物も何もかも塩水にいっぱい浸かってしまった。これをまた洗濯しなければならんし、つまらんことだと思うだけやったら何にもならない。
ところがぼくはそう思わないで、死なないで助かったということは、これはぼくの運が強いんやなと、こう思ったわけや。そやから腹は立たんわな。そういうように発想をいいほうに転換しないといけない。
人間の心というのは、孫悟空の知意棒みたいなもので、耳の穴にも入るし、六尺の棒にもなる。自由自在やな。人間の心はそれだけ伸縮自在で、思い一つで変わってくるわけや。腹を立てていたことを感謝するようになったり、感謝していることでも腹を立てたりというようになってくる。そこで自分というものをどう制御するかやな。これが大事や。自分というものを使いこなすことができなかったら、人を使いこなすことなどできない。
(松下幸之助著「リーダーになる人に知っておいてほしいこと」より)
次に、「小事で大事をつかむ」ことになる自由な発想の転換について、松下翁は以下のように述べています。
…どんな仕事でも、単純な仕事でも、真心をこめてやらないと具合が悪い。そこからいろいろなものが生まれてくるわけや。掃除の仕方でも、やっているうちに、こういう掃除の仕方があるということがわかってくる。植木のあいだを掃除していても、こういうふうにしたほうがもっと早くきれいになる、木のためにもなると気づく。そんなことまで考えるような人は、しまいには植木の職人になるかもわからん。そうすると、植木屋になっても非常にいい仕事ができる。君が植木屋になるわけやないけれども、どんなにつまらんと思う仕事でも、やる以上は精神をこめてやらなければいけない。
ところがはたして、全員が朝の掃除を三十分間、誠心誠意やっているかどうかという問題ゃな。形式的にやっているだけだったら、それはもう、何も身につかんわけや。植木のあいだを掃除している。葉が落ちている。その落ち方を見て、この植木は傷んでいるからもっと水をかけてやらなければいけないというようなこともわかってくる。掃除をしていながら、植木を育てることもできるわけや。すべてにおいてそうなれば、商売をしていても、こういう商売の仕方は具合が悪い。将来の日本のためにならない。将来の日本のためになるには、商売の仕方を変えないといけない。そのためには、この法律は必要ない、この法律があったらかえってじゃまになるから、この法律を変えなければいけない。するとさらに、そのためには政治はこうあらねばならない、ということまで発想していくことになる。
だから、掃除をしている過程において、偉大な政治の要諦がつかめるわけや。こうしてやればいいという程度やったら単なる掃除で終わってしまう。そういうことやな。掃除に出てくる人もあるし、出てこない人もあるということを聞いたから、そんなことでは具合悪いなと思った。掃除をするということの意義を知らない。なぜ政経塾で掃除というものをさせるかというと、掃除から政治はいかにあるべきかということまで発想できるからや。それで掃除も大事やというふうに考えている。諸君は他の何についてもそういう見方をしないと、非常に浅くなってくる。深いものを汲み取ることができないわけや。だから、掃除をしていても、政治の真髄をつかめる人と、単なる掃除で終わってしまう人と、十年のあいだに格段の差ができるわけや。
(松下幸之助著「リーダーになる人に知っておいてほしいこと」より)
更に、自由な発想の転換に必要な自分の心を解き放ち、広げていくとは具体的にどのようなことなのか、加えて、それがどのような効用を生むのかについて、松下翁は以下のように述べています。
富士山は西からでも東からでも登れる。西の道が悪ければ東から登ればよい。東がけわしければ西から登ればよい。道はいくつもある。
時と場合に応じて、自在に道を変えればよいのである。一つの道に執すればムリが出る。ムリを通そうとするとゆきづまる。動かない山を動かそうとするからである。そんなときは、山はそのままに身軽に自分の身体を動かせば、またそこに新しい道がひらけてくる。
何ごともゆきづまれば、まず自分のものの見方を変えることである。案外、人は無意識の中にも一つの見方に執して、他の見方のあることを忘れがちである。そしてゆきづまったと言う。ゆきづまらないまでもムリをしている。貧困はこんなところから生まれる。
われわれはもっと自在でありたい。自在にものの見方を変える心の広さを持ちたい。何ごとも一つに執すれば言行公正を欠く。深刻な顔をする前に、ちょっと視野を変えてみるがよい。それで悪ければ、また見方を変えればよい。そのうちに、本当に正しい道がわかってくる。模索のほんとうの意味はここにある。そしてこれができる人には、ゆきづまりはない。おたがいにこの気持ちで、繁栄への道をさぐってみたいものである。
(松下幸之助著「道をひらく」より)
自分の心を解き放ち、広げていくとは「素直な心」を保つことで融通無碍になることであるとも言えます。素直な心であれば、何ごとにも行き詰まることがなくなるということです。更に、指導者は一歩進み、危機に直面してもこれをチャンスとして受けとめ、難局をのりこえることでよりよい発展への契機とする「禍を転じて福となす」ことが求めらていると言えます。そのためには私心なく考え続け、知恵を集め、今まで考えもつかなかった画期的な発想を生み出すことが必要になりますが、これもまた全ては「素直な心」であってこそ可能になることであると私は考えます。
中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp
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