TBSサンデーモーニング~風をよむ「強まる白人至上主義」~を見て
2019年3月24日(日)放送のTBSサンデーモーニング風をよむのコーナーでは「強まる白人至上主義」と題し、番組内でのディスカッションが行われていました。
風をよむ「強まる白人至上主義」 | 「サンデーモーニング」スタッフノート
( https://note.mu/tbsnews_sunday/n/n1fc7f5384e09 )
以下一部転載。
「19日、ニュージーランドで起きた銃乱射事件の映像を流しながら、トルコのエルドアン大統領は、選挙集会に集まった聴衆を前にこう語りました。
エルドアン大統領「もしニュージーランドがこの攻撃者に責任をとらせることがないなら、我々が何らかの形で責任をとらせる。なぜなら、我々はイスラム教徒、彼らはキリスト教徒だからだ」
エルドアン大統領は、こうしたイスラム教徒への攻撃が続くならば、自分たちが報復するともとれる激しい非難を口にし、波紋を広げました。
今回の事件を起こした容疑者は、ネット上に残した声明の中で、イスラム教徒などの移民を繰り返し「侵略者」と非難。犯行の理由をこう述べていました。
タラント容疑者「侵略者たちに、『白人』がいる限り、我々の土地は決して征服できないと見せつけるためだ」…」
番組内での一通りのディスカッションを拝見した上で、私は、2人の先哲の言葉が頭を過りました。「今ある現実を先見した言葉」と「混沌とした現状においても未来への希望が残る言葉」です。
先ず、「今ある現実を先見した言葉」としては、教育者であり哲学者であった「全一学」の祖である森信三先生の言葉です。全一学の根底にはニつの大きな真理があり、それは「万物平衡の理」と「身心相即の理」に大別することが可能です。「万物平衡の理」とは、簡単にはこの世の中というものは全てにプラスとマイナス、表と裏、陽と陰というように、バランスされるようになっていることが真理であるとするものです。
森信三先生は以下のように述べておられます。
「『宇宙の大法』たる宇宙的真理は、万有すべて調和と釣合いによって、その存立を保つように大宇宙は造られている故、進むことのみ知って退くことを知らぬということほど、世に危険なことはないわけである」
(森信三著「全集続編第四巻」より)
「この大宇宙においては、あらゆる意味で、この視えない巨大な『平衡の理』が行われているのであって、元来無色透明であるべき自然科学的真理すら、それを人間中心的に余りに度を過ぎて利用しようとすれば、そこには必然に一種の反作用の生じるのは、これまた当然というべきであろう」
(森信三著「全集続編第四巻」より)
更には、
「『物盛んなれば必ず衰える』というは、厳たる宇宙の大法の示現する冷厳極まりない真理」「『天』は単に物質的な繁栄のみを、無条件で与えるようなことはしない」
(森信三著「全集続編第五巻」より)
とも仰っています。
「万物平衡の理」とは、「身心相即の理」、つまりは、心と身体のバランスにも同様に当てはまることであるとした上で、次のようにも述べています。
「今や我われ人間における『物』と『心』のバランスの失われつつある現状を考える時、いよいよその感の切実なるを覚えるのである。けだし『物』の世界が過度に繁栄すれば、『心』の世界はそれと並行して進歩するかに考えられて久しき人類の願いは、今や無残にも敗れ去らんとしつつあるのであって、かかる悲劇は実にわれらが眼前の事実と言ってよいであろう」
(森信三著「全集続編第四巻」より)
「物質文化は、無限の積み重ねが可能であるのに対して、精神文化の方はそれが利かないのである。そしてそれの最根本的な深因は、人間にはいかに卓れた人にも、何時かは『死』が到来して、この地上よりその姿が消え去るという一事である。随っていわゆる積み重ねということが、科学のようには利かないわけである」
(森信三著「全集続編第四巻」より)
と、物質文明の絶対的な非後退性と、精神文化における進歩と退歩との動的切点との間には巨大なギャップが生じると述べています。この森信三先生の残した言葉を別の視点から考察しますと、マズローの欲求5段階説においても説明は可能であると言えます。低次の物理的な欲求である、生理的な欲求や安全欲求というものが満たされていなかった時代においては、物質文化における無限の積み重ねが可能でした。しかしながら、既に飽食の時代となり衛生欲求が満たされた現状においては、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求という精神文化の進歩を人々は求めるようになってきました。つまりは、精神文化は物質文明のように積み重ねが効かず退歩性を有しているということに我々人類は目を向け努力しなければいけないということです。
換言すると、モノが満たされた現状においては、モノを満たすまでに用いていたプロセスとは異なる方法を用いて、人間的な成長に繋がる行動を意図的に取らなければ、物質と精神、或いは、心と体の不調和が大きくなり、比例するように苦痛や苦悩も増加していくことになるのだということです。
改めて、「強まる白人至上主義」というものを見てみますと、人間的な成長とは反比例する一種の幼稚性をともなった、精神的な退歩をしているようにも見えます。
そんな混沌とした現状において、司馬遼太郎さんの次のような言葉に、僅かな未来への希望が残されていると言えるのではないでしょうか。
「…人間は、-- くり返すようだが -- 自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。
つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。…」
(司馬遼太郎著「21世紀に生きる君たちへ」より)
「人間こそ、いちばんえらい存在だ。」 と 「白人こそ、いちばんえらい存在だ。」というのは、とても似ていないでしょうか。
私達の生きるこの世界に、森信三先生の仰るように「万物平衡の理」という真理が存在するならば、一部で「強い白人至上主義」が世の中を席巻するようになってきたならば、それと相反する「多様性許容主義」のような融和型の思想が世の中の調和を保つために必要とされるとも言えます。畢竟するに、精神的に後退性を伴った人間たちの増加の背景には、見えないところでの精神的な進歩性を伴った人間たちの増加を意味しているのかもしれません。
※こちらは2019年3月24日(日)のnakayanさんの連続ツイートを読みやすいように補足・修正を加え再編集したものです。
中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp