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沢山の「恩」を集め「社会」に返す

松下幸之助 一日一話
12月 5日 恩を知る

恩を知るということは、人の心を豊かにする無形の富だと思います。

猫に小判ということがありますが、せっかくの小判も猫にとっては全く価値なきものにすぎません。恩を知ることはいわばその逆で鉄をもらってもそれを金ほどに感じる。つまり鉄を金にかえるほどのものだと思うのです。ですから今度は金にふさわしいものを返そうと考える。みんながそう考えれば、世の中は物心ともに非常に豊かなものになっていくでしょう。

もっとも、この恩とか恩返しということは決して要求されたり、強制されるものでなく、自由な姿でお互いの間に理解され浸透することが望ましいと思います。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

「恩を知る」とは自らが受けている「恩」に気付くことと安易に解釈してしまいがちですが、「恩」に気付くためには、先ず「恩」とは具体的にはどのようなものなのかを知る必要があります。更には、その「恩」とは、誰からどのように与えられ、誰がどのように受け取るものなのかを知る。同様に、恩返しとは、誰から誰に対してどのようにするものなのかを知る。それらを含めた「恩」に関する全てを知ることが「恩を知る」ことであると言えるのではないでしょうか。

「恩を知る」上においては、渋沢栄一翁が著書「論語と算盤」にて述べている以下の言葉が参考になります。

如何に自ら苦心して築いた富にした所で、富はすなわち、自己一人の専有だと思うのは大いなる見当違いである。要するに、人はただ一人のみにては何事もなし得るものでない。国家社会の助けによって自らも利し、安全に生存するもできるので、もし国家社会がなかったならば、何人たりとも満足にこの世に立つことは不可能であろう。これを思えば、富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う「己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す」といえる言のごとく、自己を愛する観念が強いだけに、社会をもまた同一の度合いをもって愛しなければならぬことである。世の富豪はまず、かかる点に着眼しなくてはなるまい。…
(渋沢栄一著「論語と算盤」)

…今時の富豪はとかく引っ込み思案ばかりして、社会のことには誠に冷淡で困るが、富豪といえど自分独りで儲かった訳ではない。言わば、社会から儲けさせて貰ったようなものである。例えば地所をたくさん所有していると、空地が多くて困るとか言っているが、その地所を借りて地代を納めるものは社会の人である。社会の人が働いて金儲けをし、事業が盛んになれば空地も塞がり、地代も段々高くなるから、地主もしたがって儲かる訳だ。だから自分のかく分限者になれたのも、一つは社会の恩だということを自覚し、社会の救済だとか、公共事業だとかいうものに対し、常に率先して尽くすようにすれば、社会は倍々健全になる。それと同時に自分の資産運用も益々健実になるという訳であるが、もし富豪が社会を無視し、社会を離れて富を維持し得るがごとく考え、公共事業、社会事業のごときを捨てて顧みなかったならば、ここに富豪と社会民人との衝突が起こる。富豪怨嗟の声は、やがて社会主義となり「ストライキ」となり、結局大不利益を招くようにならぬとも限らぬ。だから富を造るという一面には、常に社会的恩誼あるを思い、徳義上の義務として社会に尽くすことを忘れてはならぬ。…
(渋沢栄一著「論語と算盤」)

余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心していた。福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い。著者は常に自己のことよりも、国家社会を利するという観念をもって、筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理に外ならぬもので、多く社会を益することでなくては、正径な事業とは言われない。仮に一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならば、どんなものであろうか。如何にその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに、国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。
(渋沢栄一著「論語と算盤」)

渋沢翁曰く「恩」とは、「国家社会の助けによって得た富であり、社会の助力を受けている訳だから社会に対して返すものである」、換言すると、「富を造るという一面には、常に社会的恩誼あるを思い、徳義上の義務として社会に尽くすことを忘れてはならぬ」と述べています。また、福沢翁曰く「書物の助けによって得た知識(富)であるならば、筆をとり国家社会を利する」ということも恩返しの1つの形であり、渋沢翁はこのロジックは事業界にも当てはまるのだと述べています。

「恩」を知るためには、人から人に対する「恩」を知るだけではなく、寧ろ社会から人、そして、人から社会への「恩」を知る必要があると言えます。仮に、人から人への「恩」であったとしても、「恩」というものは見返りを求めて与えるものでなく、「恩」を与える側の人は既に自らが富を得ているからこそ与えるケースが多いものであり、恩返しは人から社会への形を望むことが多いのではないかとも考えられます。


翻って、松下翁は、「儲けた金は、社会からの事業依頼の金である」として以下のような問答を残しています。

――松下さんは、たとえ私企業といえども会社の財産は ”公” のものと考えるべきだと主張されていますが、いつからそのように考えるようになられたのでしょうか。

松下 商売を始めた当時は、自分自身の生活というものが非常に心配でしたが、二、三年もすると、今度は商売とはどういうものかを、ひょっと考えてみたんです。
 結局社会と関連して、相互の生活を向上させることに一つの使命がある。そう考えてみると、商売であがった利益は、法律上は個人のものであるけれども、しかし実質的には社会の共有財産である。したがってその一部は自分の良識で使うことが許されるけれども、大部分は社会から預かった金である。その事業をもっとたくさんするために、という意味で預かった金だ、と解釈したんです。
 したがって、私は三、四十人しか使っていないときから、個人の生活と店の経理を別にしてきました。それは法人であればむろん当然ですが、個人商店の場合は、昔のことですから店の金も自分の生活費も一緒やった。
 けれども私はそれをやらなかったんです。そして毎月決算をすることにした。その考えがだんだん強くなって、個人の財産も本質的には全部社会の共有のものである。したがって自分の財産は、みだりに使うことは許されない。むしろ財産があることは、それでさらに事業をしなければならんと考えるにいたったんです。
 その意味で、儲けた金は、社会からの事業依頼の金であると解釈する考えをもちました。そうなってくると、事業に対しても、公共性をもっているというはりあいで、仕事に精神的な面で非常に強みができてくる。自分が儲けるためにだけでは弱いんです。また、経営上の信念も非常に強くなってくるんです。
 だから工場とか施設を建てるのには非常に大胆でした。自分個人の金を損せんか、損せんかという心配はない。利益は、当然また使うために社会から投資されているんだということです
 実際、いくら金を儲けても個人であの世までもっていけない。いつかはだれかに、または国に還元しなければならない。結局そう考えていいわけです。一部は報酬として自分が使うことを許されるが、大部分は勝手に使うことは許されないのです。
(松下幸之助著「社長になる人に知っておいてほしいこと」より)

つまりは、お金や知識を含めた富というもは、社会から受けた「恩」であり、「恩」というものと「社会」を切り離して考えてはいけないものであると言えます。更には、「恩」とは一個人の所有物ではなく一時的に「社会」から預かっているものであり、「恩」は「社会」に対して返す必要があると言えます。「恩」を私物化せずに「社会」に返すことが出来る人の元には、「社会」から沢山の「恩」が集まってくるのだと私は考えます。沢山の「恩」を集めるためには、心の豊かさが必要であり、その心の豊かさこそが無形の富であるからこそ、松下翁は、「恩を知るということは、人の心を豊かにする無形の富である」と仰っているのではないでしょうか。沢山の「恩」を集め「社会」に返すことが出来る人間でありたいものであると私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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