「恩を知る」とは自らが受けている「恩」に気付くことと安易に解釈してしまいがちですが、「恩」に気付くためには、先ず「恩」とは具体的にはどのようなものなのかを知る必要があります。更には、その「恩」とは、誰からどのように与えられ、誰がどのように受け取るものなのかを知る。同様に、恩返しとは、誰から誰に対してどのようにするものなのかを知る。それらを含めた「恩」に関する全てを知ることが「恩を知る」ことであると言えるのではないでしょうか。
「恩を知る」上においては、渋沢栄一翁が著書「論語と算盤」にて述べている以下の言葉が参考になります。
渋沢翁曰く「恩」とは、「国家社会の助けによって得た富であり、社会の助力を受けている訳だから社会に対して返すものである」、換言すると、「富を造るという一面には、常に社会的恩誼あるを思い、徳義上の義務として社会に尽くすことを忘れてはならぬ」と述べています。また、福沢翁曰く「書物の助けによって得た知識(富)であるならば、筆をとり国家社会を利する」ということも恩返しの1つの形であり、渋沢翁はこのロジックは事業界にも当てはまるのだと述べています。
「恩」を知るためには、人から人に対する「恩」を知るだけではなく、寧ろ社会から人、そして、人から社会への「恩」を知る必要があると言えます。仮に、人から人への「恩」であったとしても、「恩」というものは見返りを求めて与えるものでなく、「恩」を与える側の人は既に自らが富を得ているからこそ与えるケースが多いものであり、恩返しは人から社会への形を望むことが多いのではないかとも考えられます。
翻って、松下翁は、「儲けた金は、社会からの事業依頼の金である」として以下のような問答を残しています。
つまりは、お金や知識を含めた富というもは、社会から受けた「恩」であり、「恩」というものと「社会」を切り離して考えてはいけないものであると言えます。更には、「恩」とは一個人の所有物ではなく一時的に「社会」から預かっているものであり、「恩」は「社会」に対して返す必要があると言えます。「恩」を私物化せずに「社会」に返すことが出来る人の元には、「社会」から沢山の「恩」が集まってくるのだと私は考えます。沢山の「恩」を集めるためには、心の豊かさが必要であり、その心の豊かさこそが無形の富であるからこそ、松下翁は、「恩を知るということは、人の心を豊かにする無形の富である」と仰っているのではないでしょうか。沢山の「恩」を集め「社会」に返すことが出来る人間でありたいものであると私は考えます。