人生を自分でデザインしていくことが大切。 <第1話>挫折やモラトリアムを経て渡米
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「これからどうしよう?」と迷ったとき何かのヒントを見つけてもらえればという思いで紹介している「身近にいる普通の働く女性たち」のキャリアや人生についてのインタビューエピソード。
今回は、長編なので、3話に分けてのご紹介です。
現在70代後半のてるこさん(仮名)。ご家族の生き様から得た多大な影響を力に、大学、大学院に進学。様々な迷いと軋轢を経験した後、共に研究者を目指す人と結婚し、出産後に渡米。アメリカで順調に研究生活を送っていたところ、日本の母校からの招聘により帰国し、高齢社会の課題に取り組む組織を立ち上げ。現在に至るまで様々な分野で活躍されています。
今回の第1話は、生い立ちから大学院を出て渡米するまでを。第2話は、アメリカでのお仕事と子育て。そして、その後日本に戻られて学内の新組織の立ち上げに取り組むに至るまでを。第3話は、定年後に始められた農業のお話や後輩へのメッセージをお届けします。
―――今回、ライフヒストリーや人生曲線を書いてみていかがでしたか?
昔のことはあまり覚えていなくて(笑)。 平坦だったように思うけど、その時にはいろいろあっただろうなとは思って、30~50代を凸凹の線にしています。
10代の落ち込みは大きな影響を受けた祖父が亡くなった時。20代前半はモラトリアムでちょっと下がり、20代後半に結婚・出産して上がりました。
60代で定年退職してからが一番いい状態。「自由なセカンドライフ」っていう感じです。
跡取りとして育てた祖父と、「結婚までは好きなことを」と言う母の影響(幼少期~10代:大学進学は既定)
―――てるこさんの時代、女性で大学や大学院に進まれるのは珍しかったのではないですか?どんなご家庭だったのでしょうか?
私は、家父長的な家に育ちました。父が長男で、3世代のトップに家父長である祖父がいて、その祖父の影響と、それと全く違う文脈で、母の影響を受けていると思います。
祖父にとって、私は65歳過ぎてからの初孫だったので、すごくかわいがられました。母から聞いた話では、私が生まれたときから、祖父は、毎日の晩酌のときにお酒を私のほっぺたにくっつけながらそれを肴にしてニコニコ飲んでいたそうです。私は、遺伝的にもお酒が強いと思うし、環境的にもお酒を飲むことが楽しいと思えるのは祖父から受け継いだものだと思います。
―――それもある意味、英才教育ですね(笑)
はい(笑)。そして、生き方にも大きな影響を受けました。
祖父は、福沢諭吉が毎朝、塾生と散歩された時代の弟子でした。それで私は、福沢先生から聞いたことや、書かれたものの話を子供の頃から聞いて育ちました。福沢先生は、女の子であっても、これからは自分の考えを持って、自分で生きていけるようなスキルを持たなければいけない、そのために女性もちゃんとした教育を受けなくてはいけないと。祖父からそういう話を聞きました。
それと、妹がいるのですが、祖父は、男の子が生まれないなら長女の私が「跡取り」になると思ったらしいんですね。それで、跡取りとしていろいろな教育をされました。たとえば、5歳くらいの時、銀行だか証券会社だかに私を連れて行って、挨拶のしかたなどを教えられました。また、ヨーロッパやアメリカを視察して回ったときの話もよくしてくれました。外国の写真や絵ハガキを見せてもらい、「ああ、そういう世界があるんだな、いつか行ってみたいな」と思ったのを覚えています。
だから、祖父からは、女性も教育を受けて、自分の考えを持って自分で生きていけるようにならなければいけない、と教えられました。
―――福沢諭吉が出てきたのにはちょっと面食らいましたけど(笑)。でも、その時代にそういうことを考えられていたというのはありがたいお話ですね。
福沢諭吉は本当に偉人だと思います。今、本を読んでも考え方が新しいと感じます。
実は、母も父と同様に豊かな家で育ったのですが、家風は全く違っていました。母方の祖父はとても風流人で、お茶会で人をもてなしたり、絵も描くし、洋画のコレクションもするような人でした。一方、父方の祖父は禅の精神で、シンプル、質素をよしとする家風でした。それゆえ、母は、嫁ぎ先の家風に合うように初めから鍛え直されて、とてもショックだったそうです。なので、母からは、「結婚したら婚家の家風に従って生きなければいけないんだから、結婚するまでは好きなことを思う存分やりなさい」と言われていました。母は古風な考えで、お嫁に行って、その家にお仕えして良妻賢母がいいと思っていたわけですが、一方では嫁ぐまでが華だから、という意味で「自由にやれ」と言いました。母は去年98歳で亡くなりましたが、4人の姉妹を含めて全員が女子大に行っています。
というわけで、祖父の考え方からも、母の考えからも、私には大学に行かないというチョイスはなかったように思います。
初めから研究者になろうとは思っていなかった(20代前半:モラトリアムとしての大学院進学)
―――大学院進学については?
大学院に行ったのは、まさにモラトリアム。
学部の3年のときに、将来のことを考えていろいろ迷いました。候補が幾つかあって、一つは農業への憧れ。でも農業は全然やったことないし、親族にも農業をやっている人はいなかった。もう一つは、福祉関係の仕事。そこで、情報を集めるだけではなく、やってみなくてはわからないと、1年留年するつもりで体験をすることにしました。
同級生のお母さんのご実家がみかん畑をやっていらしたので、そこで1か月半くらい泊まりこみで働いてみることにしました。ちょうど収穫期で、朝の4時頃から起きて、食事の用意をして、畑に出てという、農家の人がやっている生活を体験しました。「夫婦で一緒に一日働くのもなかなかいいな」と言ったら、「そんな甘いもんじゃないよ」と言われました。でも、大変なことも、良いことも体験した上で、農業への憧れは今に至るまで続いていて、遂に始めたんです、去年から。(※農業のお話は第3話で)
そのあと、知的障害のある子どもたちのための施設へ行きました。当時、『この子らを世の光に』という糸賀一雄先生の本を読んで感動しました。それで先生に手紙を書いたら、「来なさいよ」と言われ、先生が創設された施設「近江学園」へ行きました。そこは1軒ずつに、スタッフがお父さんとお母さんのように住んで生活していて、私はそこのお母さんとして、2か月近く、6~7人の自閉症の子供たちと一緒に生活しました。
そういうふうにして、「将来何をしよう?」といろいろ考えた。で、最終的に大学院に行ったのは、決めるのをちょっと延ばしたということなんだと思います。なので、初めから研究者になろうと思って大学院に行ったのではありません。
社会を変えないと個人は幸せにならない(20代半ば:渡米を決意)
―――で、なぜ、アメリカに行こうと?
大学院で、実際に研究しようと思ったら、ちょうど大学闘争になって、全く研究ができなくなりました。学生同士で激論し、教授たちとも闘争したにもかかわらず、何も変わらなかったという、愕然と挫折感を感じました。それで私たちの世代は、大挙して外国に出ました。同じ研究室の同期生は一人を除いて全員海外に出て、そのまま帰ってこなかった。私自身も30年近くアメリカにいました。そういう世代なんですね。
―――事前に書いていただいたヒストリー表で「個人ではなく社会を変えなければ人は幸せにならない」と書いておられますが、これはどういうことですか?
私が専攻した臨床心理学は個人の心を変えて健康な生活の軌道に戻すことを目指します。当時、臨床心理学では日本の権威だった指導教官に、「個人の問題は社会に問題があるのだから、個人を変えても限界があり、社会を変えないと個人は幸せになりません」と、ある意味、その先生がなさっていることを全否定するようなことを申しました。学部の卒論書いたくらいで、しかも大学闘争があってろくに勉強もしていないのに。今考えると顔から火が出るくらい恥ずかしいのですが、背景には、学生と教官の間に、敵対関係までではないけれど、今とは違った雰囲気があった。その先生は黙って「そうか」と受け入れてくださいました。その後、私は臨床心理学ではなくて、もう少し社会を変えることを学びたいと言って、アメリカの大学に行きましたが、先生は私がアメリカに行ったあともずっと応援してくださいました。今でも、若気のいたりとは言え、そういうことを指導教官に対して言ったことを心から反省し、後悔しています。
結婚をめぐって母と対立(20代後半:結婚、出産)
―――その頃、結婚されたのですね?
母には猛反対されました。その当時、サルトルとボーヴォワールが私たちにとって魅力的なカップルでした。それぞれが独立して自分の考えを持ち、お互いに対等な立場で議論して成長していく姿を見て、素敵だなと思っていました。だから結婚という形にこだわらなかったのですが、一緒に住むとなって、母にひどく反対されて。「相手は何する人?」と訊かれて、「学生で、研究者になる人」と言ったら、「本当の仕事は何をするつもりなの?」と訊くのです。母からすると、学生とか研究者って「本当の仕事」だと認めていない。しかも、結婚せずに一緒に住むなんてもってのほかということで、散々泣かれました。特に私が長女なので、娘の結婚式を夢見ていたようです。結局、簡単な披露宴だけはして、でも、籍は入れないで、姓も元のままで。
―――だんな様は同級生だったんですか?
研究分野は違うけれども、同じ年に生まれている同級生です。私たちの結婚って、友達関係だったと思います。同士っていうか、同じ価値観を持っていて、一緒に行動して楽しい、そういう関係。いわゆるロマンティックな関係ではなかったように思います。
―――結婚されてすぐにお子様が生まれたのですか?
披露宴をやったあとに生まれました。まだ大学院生でした。籍を入れる気はなかったのですが、その後、アメリカに行くときに、夫婦同姓でないといけないと言われたので、便宜的に彼の姓に変えました。
―――だんな様も、自由な考え方をされる方だったのですか?
お互いに自由に生きようとはずっと言っていました。子供が生まれた頃に、お互いにサポートしようということも言いました。私たちの世代ってそういう風潮のある時代でした。「もし、あなたが北極に探検に行きたいと思ったら行っていいよ。子供の一人や二人は私が養えるから」と言ったのを覚えています。うちの夫は全然そういうタイプではないのですが(笑)。お互いにやりたいことがあったらとことんやろうよ、それをお互いに応援しようよ、ということです。
―――だんな様もサポートしてくれたということですね。
結婚したときに約束したことを彼は守ったと思いますね。アメリカに行ってからもいろいろなことがあったけれど、常に応援してくれた。今も含めて。お互いにできる限りサポートし合ったと思います。
―――素敵な関係ですね。アメリカでの生活はいかがでしたか?
<続く>
(*文中の写真はイメージです)
インタビュアーズコメント
第2話は、アメリカの大学でのお仕事や子育て、再び日本に戻る決断に至るまでのお話です。
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