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縦糸は自分、横糸は関わる人々。糸を紡ぐように「誰かのために生きる人でありたい」
新年を迎えて、「今年はどんな1年になるのだろう」と少し不安に感じたりしていませんか。そんな貴女に読んでもらいたい。そして、何かのヒントを見つけてもらえたらという思いで、今年も「身近にいる普通の働く女性たち」のキャリアや人生についてのインタビューエピソードをご紹介させていただきます。
2024年最初のご紹介、第20回となる今回のお話は、子育てをしながら、地方公務員として部長まで務められた、はなさん(仮名)のエピソードです。
はなさん(70代前半)(インタビュー当時)
経歴: 大卒後、市役所職員として勤務。子育てをしながら意欲的に勤務し、管理職を歴任。現在は、嘱託で市の仕事をしながら、市民と複数の団体を立ち上げ、様々な課題解決のサポートを行なっている。夫と二人暮らし。
#ライフデザイン #インタビュー #働く女性 #公務員 #女性管理職 #育児と仕事 #家族の力 #定年後
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長く働く女性が少なかった時代、子育てをしながらの勤務は苦労も多かったけれど、「誰かができるなら自分もきっとできる」と、チャレンジを続けてこられた、はなさん。家族との関係も人生に大きな影響があったそうです。はなさんが歩んでこられた、そして、定年後の今も歩んでおられる道のりとは?
―――今回、ライフヒストリーや人生曲線を書いてみていかがでしたか?
人生曲線のマイナスはマイナスではないです。線は下げたけれど、私にとってそれが糧になってプラスの部分があるので、表現のしかたが難しかったですね。
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父の看護で家族の力を感じた
20~30代:公務員として就職、すぐに看護を経験し、そして結婚
―――就職の経緯を教えていただけますか?
私は「糸」が好きなんです。で、大学受験に際しても、テキスタイルデザインとか、糸と糸とが醸し出すものの表現に興味があって、そういう道に進みたいと思っていたんです。でも、父も母も関東大震災と戦争を経験しているので、「今は平和だけど、いつどうなるかわからない。大学で資格をとって、女性であっても一人で暮らしていけるような力を身に着けなさい。その上で余裕があれば趣味をやるのは自由だ。」と言われました。私は結婚には興味がなかったので、生涯独身で行くなら確かに資格が必要と考えて、図書館司書、博物館学芸員、社会教育主事、教員の資格をとり、更に大学を出るまでに華道と茶道の師範の免許をとって、何かを使えば生きていけるようにしました。その上で趣味を続けられるという状態にしたんです。
大学4年で就職を考える時に、自分のやりたい趣味の時間とのバランスを考えて、市の職員の仕事に決めました。
―――結婚には興味がなかったのですか?
母が苦労しているのを見ていたので、結婚に魅力を感じなくて。職場の人も私は結婚しないで働き続けるタイプだと思っていたみたいですね。
ところが、就職後すぐに父親ががんになり、家族みんなで父の闘病を支える生活になって、あれだけ不満を言っていた母が支えている姿を見ることになった。兄も結婚しているのに父のためにいろいろしている。そんな家族を見ていて、人が生き抜いていく上で家族の力は素晴らしいと感じました。自分は一人でやっていけると思っていたけれど、自分の家族がいる生活、結婚して家族として育ちあう生活もいいかな、と思ったんです。その後ご縁を得て結婚生活に入りました。
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できることはやろうと男性の仕事と思われていたものにも手を挙げた
40代前半:異動と昇格
―――お仕事では、女性として今でも数少ない部長になられたと聞いていますが?
平成が始まった頃、女性職員も管理職にする道を意図的に開かざるを得ない状況になったんです。各市でちらほら女性係長が出始めた頃、私にも声がかかったんですが、女性が昇格することに反対する男性も多かったそうです。私は、まだ子どもが3歳か4歳だったので、「あの人は子育て中でしょ」とか、「出先職場を経験していないのに上に立てるのか」とか。男性はそういう人でも係長、課長に上がっていくのに、と内心思いましたけど、いい機会でもあると思って、出先職場へ異動し、いろいろ改革をして、1年先に係長になって戻りました。
―――管理職は、女性初だったのですか?
女性で係長、課長になった方はほかにもいます。女性管理職の場合、割と女性がやりやすいと思われる部署や担当範囲が狭い部署に配置されるのですが、私は当然男性が担当すると思われている分野を女性として初めて任されました。私自身は、入ったときから「できることはやろう」と思っていたので、男の人がやるものとされている仕事にも手を挙げてやってきました。それで、女性が任せられることはなかった新規事業をやらせてもらったり、市の歳入予算の作成などもやらせてもらったり。
代々男性職員しかやってこなかったことも、「誰かがやった仕事なら、私も努力すれば絶対できる」と思うことにしているんです。失敗もするけれど、何らかの形はつけられるはずだと。部長になるのは嫌だという後輩たちは結構いますが、誰かがやったことならできるから、と励ましています。ただ、部長となると、最後の責任をとることになるし、市の施策に直接響くので、そこに恐れを持っている女性は多いと思います。それをどう乗り越えるのか、その人らしさを発揮するところかもしれませんね。
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―――管理職になってからはどうでしたか?
びっくりするような意地悪もありましたよ。企業より公務員の方が厳しいこともあるかもしれない。企業は女性登用すれば宣伝効果がありますからね。でも、昇格を祝ってくれる同期の男性もいて、応援してくれる人がいるというのは励みでしたね。
過労でダウン。仕事が好きだと悟る
40代後半:病気からの復活
―――40代後半で、曲線が下がっていますが?
私は頑張りすぎてしまうんですよ。昼は一生懸命働いて、夜は子育てや家事をこなして。あるとき、同じ職場の男性職員が緊急事務に駆り出されて、丸々2週間、彼の分の仕事もしていたんです。夜8時まで仕事して、持ち帰って深夜まで家でもやった。そうしたら過労による肝炎になってしまったんです。
劇症肝炎で、大きな病院に搬送される途中で昏睡状態になって。2日間寝続けて目が覚めて死ななくて済んだんですが、死と向き合うことになって、子どもを残して死ねないと思いました。1か月後、やっと医者から、「職場復帰はダメだけど、家では普通にしてもいい」と言われた帰りに、職場に「ご迷惑をおかけしました」と挨拶に行ったんです。でも職場に行ったらスイッチが入ってしまった。翌日から家に仕事を持ち帰って電話で話しながら仕事してしまいました。私、やっぱり仕事が好き、働くことが好きなんだなとその時すごく思いました。
誰かの支えになる生き方を
60代:母と兄の死を経て
―――60代で人生曲線が下がっているところがありますね?
母が亡くなったのと3年後に兄が亡くなったところ。これは大きかったです。
母は介護状態で、普段は兄嫁がみていて、土日は私が代わって介護をしていたんですが、兄も体の具合が悪かったので、私が母を引き取ることになったんです。そのためにバリアフリーの家を建てたんですけど、引越し直前に母は亡くなりました。
3年後に兄が亡くなったときには、同じ血の配分の人が誰もいなくなった、ひとりになったんだと思いました。夫と息子は私と同じ血の配分ではないでしょう?ひとりになって、これから自分をどう表現していくのか、兄の死後、そういうことを考えました。
―――そこからどのように復活していったのですが?
縦糸が自分だとして、横糸を通すいろいろな人を増やしていけばいい、そうすれば、いろいろな表現ができる、と考えました。
その頃、いろいろなNPOのお手伝いをしていて、例えば障害がある人や認知症の人が、その人の生き方次第でいろいろ自己実現できる事例に感動したりしながら、少しずつ気持ちを立て直していきました。
それと、夫の従姉の成年後見人になったんです。従姉は、ずっと独身で認知症がかなり進んでいたんです。その方のお姉さんが亡くなった時に私が代わって手続きをして、その行きがかり上、成年後見人になりました。成年後見人が、こんなに大変だとはやってみてからわかりました。でも裏側にあったのは、家族のいない人を家族の代わりに支えよう、という思いでした。母の死、兄の死があって、支える相手がいなくなって、誰かの支えでいる、という部分が欲しかったのかもしれません。
人生でいろいろ投げかけられる言葉をどう受け止めてどう生かすか。私の場合は、父が亡くなるとき「誰かのために生きる人であってほしい」と言われたことで、無意識にその言葉を、私の中で貫いてきたのだと思います。
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みんなと一緒に
今後について
―――これから先についてはどう考えていますか?
行政には様々な課題がありますが、私はこれからの行政は、市民ができることは市民にお任せして、市民が課題解決できる力をつけられるように支援するのが役所の仕事だと思っています。
定年退職後、嘱託職員としての仕事をしながら、この課題はこういう人たちならやってくれるだろうという人を集めて、その人たちのアイデアももらいながら、幾つかの団体を立ち上げました。市民の皆さんで主体的に運営していただいて、私は、これまでの経験からのアドバイスをする立場で参加しています。そして70歳を迎える前に立ち上げたいと思っていた複数の団体を作ることができました。これからは誰かが通した縦糸に私が横糸を通す、そんなあり方でまちづくりにかかわっていけたらと思います。次に取り組みたいテーマも考えています。
あと、こういう人になりたいということでは、私の子どもの面倒を見てもらっていた高齢のご夫婦のことが思い浮かびます。子どもが5~6歳の頃、宿泊での出張の私に代わって夫がそのお宅に子どもを迎えに行くはずだったのに急な仕事で行けなくなったんです。それでそのご夫婦に電話で事情を話した時に、「お約束と違いますね、困ります」という言葉が返ってくると思っていたら、「じゃあ、今日は泊まらせてもいいのね。いつかお泊りしてほしいと思っていたのに言い出せなかったの」と言ってくれたんです。明らかに困っている人を救う一言、相手の負担を軽くする一言、そういう一言を言える人間でありたいなと思います。人として大切なことを学んだと思いました。
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自分が信じる仕事の仕方をする
女性たちへのメッセージ
―――今、迷っている女性たちに何かアドバイスやメッセージがありますか?
最近、思いがけない批判がSNSで出たことで悩んでいる後輩から相談がありました。私の頃も違う形でいろいろ言われることはありました。でも私は、自分が信じる仕事の仕方をしてきた。自分がそういう姿勢を見せていれば味方に付いてくれる人がいる、と思ってやっていました。
―――今日、インタビューに参加してみていかがでしたか?
突っ走ってきたなと思います。生涯を振り返る中で、本当によかったと思ったことと苦しかった時を改めて思い出しました。仕事を続けてきてよかった、楽しかったと思っています。
(*文中の写真はイメージです)
インタビュアーズコメント
行政の世界での女性活躍のパイオニアだと思います。パワフル、エネルギッシュ。でも強く主張したり押し付けたりせず、「縦糸と横糸が織りなす世界として何かを表現していく」というような表現もされていて、一緒にやっていくということを大事にされていると思いました。後輩や市民団体の方から見ても、甘えるのではなく、頼りになる、そんな「バランス力」をお持ちなのだと感じます。すてきな人生の先輩とお話できて幸せでした。
【L100】自分たちラボ からのお知らせ
ライフデザイン研究会【L100】自分たちラボでは、働く女性に対するインタビューを行っています。詳細は『働く女性の人生カタログ』~プロローグ~をご覧ください。
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