写楽ー江戸の夜に消ゆー【弐】
【第2章】
嶋田景信(しまだかげのぶ)は、自分を尾けてきた町人風の男の返答に思わず笑い声をあげてしまった。まさか、これだけの侍に凄まれながら正直にも「好奇心が勝った」と言ってのけるこの男の度胸を痛快に感じたのだった。
しかも、自分たちの後を尾けた理由に下手な言い訳をつけるよりも、本当のことを話したほうが得策と考えるその頭の回転の良さに、感心もしていた。
この男なら、味方にしたほうが良いかもしれぬ。藩にとって、この男の知識と度胸が役立つこともあろうーー。景信は、瞬時にそう判断し自分の目の前にいるこの男を屋敷内に引き入れる事を決めたのだった。
「着いてまいれ。」
そう男に言い置いて、景信はさっさと搦手口から屋敷内へと入る。一瞬の躊躇はあったようだが、男も自分の後を追って屋敷内に入ってきたことを背中の気配で感じ取り、「やはり自分の目に狂いはなかった」と、にやりと笑った。
景信は屋敷内に入ると、彦次郎を控えの間へ案内する。その小さな座敷は、装飾も控えめで、ひんやりとした畳の香りが漂っていた。
「少し待て。」
景信が一言だけ告げて部屋を出ると、残された彦次郎は、しばらく静寂に包まれた室内で時を過ごした。 やがて、再び景信が現れ、彦次郎を更に奥へと案内する。
狭い廊下を抜けると、彼らは上段の間に向かって進んでいった。立ち止まっては礼をする家臣の姿が次々と現れ、彦次郎はこの場所がただならぬ空気を帯びていることを感じる。 そして、重厚な襖が音もなく開かれ、景信が彦次郎を上段の間へと導いた。そこには、雲尾藩の家老が、静かに彼らを待っていた。
彦次郎は、家老の前に座るや否やひれ伏した。
「私は、深川にある丸珠屋(まるたまや)の次男、新井彦次郎と申します。今回は、私の出過ぎた好奇心により、雲尾藩の皆様方にご迷惑をお掛けして、誠に申し訳ございませんでした。」
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