ピアノコンクール

競技の世界は残酷である場合がほとんどだ。
わたしの場合は、幼い頃から小学校6年生までの間ピアノコンクールという舞台で戦っていた。

とはいえ戦っていたという意識は希薄だったと思う。ただ、順位という形で優劣がはっきりとつけられる以上、戦いだという言い回しは不可避だと思う。

わたしが出場していたコンクールは、地区大会と地方大会に分けられる。全国大会はない区分のものだったと記憶している。課題曲と自由曲のふたつがあるが、地区大会の場合は課題曲のみを演奏する。そして地方大会に進むことが決まれば、課題曲と自由曲のふたつを演奏することになる。

難しい曲が課題曲になっているのでしょう、と思う方も多いのではないだろうか。だが、わたしの出場していたコンクールに限っては(他はどうなのかよく知らない)、すごく簡単な曲が課題曲に選ばれていた。簡単という言葉は使い方が難しいが、この場合は「高度なテクニックを必要としない」というふうに捉えていただけると良い。そのために、いくら技術があっても、そこで差をつけることができない。まずはミスなく弾けるようになってからが勝負になる。ミスなく弾くことはすごいことではなく、当たり前の世界で戦わねばならないのだ。

それからは「表現力の世界」に容赦無く放り込まれる。大きくなった今だからこそ、何を問われているのかはどことなくわかる気がする。ただ、舞台に立つのは齢わずか10前後の幼い子どもたちだ。何を求められているのかなんて、なかなか理解できないと思う。
また、子どものための曲というのは作りが簡単で、短い曲が多い。それだからこそ、タイトルなど少しの情報から想像を無限大に膨らませる必要がある。わたしも1分30秒くらいの短い曲に対して、自由帳3ページ分くらいの物語を書いて、情景を頭の中で描きやすくしたことがある。それが苦手な子は音の色や変化から、展開を読み取るのが苦手だったり、苦痛だったりしたので無いかと少し思う。楽しければオールオッケーだけれどもね。

それを踏まえた全ての要素をジャッジされ、勝敗を決められる。子どもたちからしたら、おそらくみんなが全力を出し切っていると思う。というよりか、そう思わざるを得ないだろう。全ての勝負事に共通することだが、何百日かけて、そのうちの何百時間も練習に費やして、そうしていない日常までもがそれに侵食されて、自分を占める割合が大きくなって大きくなって、その日々に耐え抜いた者だけが立てる舞台なのだ。それなのに、悔いが残る形ではいられないだろう。嘘でも「実力を出し切った」と言う子が多いと思う。ただ、中には泣いてしまう子もいる。実際わたしも6年生の時、ずっと一緒に出場していた名前も知らない双子のお姉ちゃんの方が泣いていた。途中で暗譜していたはずの楽譜が飛んで、止まってしまったのだ。あの空間の残酷さも半端なものではない。子どもだから、なかなか融通も効かないし、そんなものなのだが、あまりにも苦しい。

そのような場合もあるが、大抵は舞台袖に帰ってきた時の顔は晴れ晴れしていることが多いと思う。開放された!と言わんばかりに背伸びをしてから席に戻る子もいる。みんな実力を出し切ったのに、未知数の「表現力」というパラメータによって順位がつけられる。順位なんて気にするなよと言う大人もいるだろうけれども、子どもにとって順位付というのは大きな役割を果たすと思う。すごく辛いのだ。自分の理解がいまいち及ばないところで、自分が評価される。子どもピアノコンクールの残酷さとはここに極まれると思う。

自分の実力を出し切れなかったことと、よくわからないところでジャッジされて、自分の演奏をわかった気になられるのは違う部分での悔しさだと思う。前者の方が悔しさだけでいえば上だが、後者は本当にやるせなさや理不尽さを痛感させられる強烈な経験になると思う。あれだけ最高の演奏をしたのに、あれだけ時間をかけたのに、あれだけこの曲を愛していたのに。このような気持ちを忘れていきながら、新たな課題曲と向き合っていくのだ。

わたしは実際にこの世界の端っこで、小さな戦士として戦っていた。別に上手でもなんでもなかったけど、すごくいい体験だったと思う。今思えば、とても楽しかった。この小さくて、美しいだけでは成り立てない残酷な世界を、世間はもっと描写してもいいと思う。もっと焦点を当ててみてもいいのではないのだろうか。試しにYouTubeでいろいろ聴いてみてほしい。わからなかったらコメントやTwitterで聞いてください。おすすめを教えます。


tanka
未知の世界に飛び込んだ 目も開けられない、握るハンカチ よしいこう。

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