アイデアはどこから来て、原点に戻り改めて考察する
日本語ではアイデア、英語ではIDEAになっているこの言葉は今では日常会話でもよく使われますね。
辞書データベースを検索すると、
考え、着想、アイデア、発想、思いつきー・・・
といった抽象的な言葉が並記されています。
思い付きから着想までが並列で扱われており、日本語では実に抽象的な言葉。クリエティブ業界では「アイデア出し」や日常生活の中でもよく活用されています。
例:サプライズの誕生会を計画する時に
「どうしたら喜ぶかな?」
「誰かいい案ある?」
「ちょうどよさそうなアイデア思いついたよ!」
と誰かを喜ばすためのアイデアも含め、様々な場面で使われています。でも実際色んな人に「アイデアとは?」 と聞くと色んな答えが返ってきます。
ではアイデアの真の定義をもとに逆算していきましょう。
アイデアとは
語源は古代ギリシャ語
ἰδέα idea「形、型」
ἰδεῖν idein「見ること」
を意味し、
形状を表すだけでなく、心の中のイメージも表します。この言葉が初めて現れたのが14世紀のギリシャ語から。有名な哲学者のプラトン的観念論に言及されていました。彼はアイデアについて述べるまではソクラテスのような前任者などから考察の影響を受けていました。
イデア論は彼が原点とされています。
プラトンの考案ではイデアのみが究極な現実であり、複数共通しているものがあり、その原点のみがイデアであり、その後に相次ぐものはすべて知識。
例:
無限に色んな形の机があります。デザインのアイデアがあっても、机の「アイデア」と「形」は一つしかなく、原点となる机のみ。
プラトンにとっては机1つの「イデア」の世界を投影したものがそれ以降に作られた複数の机。その複数の机こそが原点の机から得られた知識だ。
プラトンはアイデアの定義や単体としての存在について多く述べていました。アイデアは何よりも現実的なもので時と空間を超えるほど偉大的な存在と言及。その一方プラトンと違い、ルネ・デカルト(17世紀のフランス哲学者)はアイデアという概念そのものが非現実的であることが主な考察。
デカルトにとってはアイデアはあくまでも何かを表象するための手段であり、表象するのは特定の物体。プラトンはその反対。
デカルトといえば、哲学を知らない人にも知り渡っている名言。
"われ思う、ゆえにわれあり。"
考えるからこそそれが存在を証明するもの。そんな意味ではないでしょうか。そんなデカルトはアイデアを3種類で区別しておりました。
①生得観念 (innate ideas)
色んな哲学者の「生得観念」はありますが、今回はデカルト目線での解説です。生まれつきから持っている知識や観念。ものや現象に主観的に意識を示しております。
デカルトの中にある生得観念は「数学的観念」
どこに行っても1+1=2です。国問わず、人問わず。
②外来観念 (adventitious ideas)
世界で経験したこと、目で見たものや外の世界から得たイメージに基づいているもの。感覚によって得られたものも含まれます。簡単に言うと、外から受けたイメージや形を表します。歩きながら見るポスター、家で読む本など、クラブで聞いた音楽など全ては「外」から来ており、それらが脳内に入りアイデアとなります。
③構想観念 (factitious ideas)
妄想や創造などから形にされたものであり、現実に定義されてるものではないようです。
デカルト曰く、生得観念は現実的な明確性あるものの、外来観念や構想観念に関しては現実の不明確性があります。
以上、3区分で分けられたデカルテのアイデアの定義です。それ以降もアイデアはどんどんと変化していきました。
アイデアの誕生は物や人から運ばれ、人間はアイデアを存在させるためのものだったのが、17世紀ではそのアイデアが手段と変わり、アイデアがあってこそ存在をすることを示すようになりました。この時期以降は「人」と「アイデア」が合体するようになり、そこからさらなる定義の拡大を果たしました。
今回はアイデアの歴史とその原点について綴っていますが、次回号はアイデアが現代どう変化し、人々の中でどんなものになったのかを共有できたらと思います。
知識というのは面白く、今の情報過多の時代では知識は所有するものではなく、全人類が知り得るものとして存在しています。そんな知識を収集しながら、アメリカ暮らしで得た視点とアイデアプラスの広報室だから見える視点を交えて、世界の「オモシロい」話を伝えていきたいと思います。
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