「関係性の築き方を教えてくれる、なかま」 保田 智美 (やすだ ともみ)
私は長年、障がい者福祉に携わるお仕事をしてきました。ただ、特別な思いがあってこのお仕事を選んだわけでなく、このお仕事の中に自分の“居場所”があるように感じさせていただけたりするので、長年にわたって携わることが出来てきたのだと思います。
その時、お世話をさせていただく相手がどのような方であっても、その方から受ける恩情は計り知れないと思うこの頃なのですが、この思いはラルシュかなの家で過ごすようになって一層強くなりました。
私がかなの家に来てから、もうすぐ一年が経とうとしています。
当時のすべての気持ちをここに書ききることは出来ませんが、その時神様から与えていただいた願いの一部には次のようなものがあります
「隣人を愛することが出来るように」
「私にとっての隣人を増やすことが出来るように」
自分のことすら知っていなかった私のことを、主なる神様は情状酌量という計り知れない愛をもって、現実に素晴らしい場所を御用意くださり、再び私を御元に招き寄せてくださったのだと実感しています。
此処かなの家では一般的に“利用者様”と呼ぶ相手のことを“なかま”と呼びます。私にとって初めてのこの呼称に慣れるのには時間がかかりました。
でも、今ではこの呼称がとても好きです。それは一緒に過ごすこと(私は今、同じ家に住んでいます)をより自然なかたちにしてくれる、少し魔法めいた言葉でもあると思います。
私が“利用者様”という施設にいた時、今よりもっとずっと腫れ物に触るかガラスに触るかといった極端な関わり方しか出来ていなかったように思います。
表面的な関わり方なら自分も相手も守れる…心の奥底ではそのような思惑も働いていたかもしれません。
過去のお話をさせていただくと、私がこちらに来る前にいたそのような施設で私のその思惑を見抜いてくださった方がいました。
なおかつ、その方はそれを私に指摘してくださるという、それまで私があまり出会ったことがないようなタイプの方でした。
その方は当時私の上司で、“パフォーマンス”についても、教えてくださいました(営業職を経て福祉職に就かれた方だったからです)。
この言葉、日本語ではいくつかの言葉で言い換えが利くと思います。
ところが、特にビジネスの世界で使われる際の言い換えや意味合いなどは、私には理解しがたいもので教えていただいてもすぐに忘れてしまうのでした。
私はそのようなことを考えられる段階にはなく“関係性の築き方”そのものが分からないタイプの人間だったからです。
ですから、それを正直にお伝えして、まず、利用者様との関係性を深める工夫を積極的に行っていければ良かったと思っています。(当時の私には、方法論が分からなかったことでもありますが…)
私がもっと正直にお話をするべきだったと感じているその上司ご自身、他のエリアで利用者様をコントロールしようとし過ぎるあまりに難しい状況になったことがありました。きっとお見受けする以上に苦しまれていたのだと思います。
その頃から時間が経った今、その方が教えてくださった一部のことを思い返すことが増えました。「私にとっての隣人を増やすことが出来るように」そのきっかけを教えてくださいました。上司の方は難しい状況を乗り越え、今では主任になられました。
かなの家では、一般の施設なら“関係性を深める為の工夫”と感じるものが、生活の中に息づいているように思います。
工夫を苦ではなく楽に感じている、羨ましいスピリットとも出会うことが出来た場所です。
そして関係性の築き方を教えてくれるのは、むしろなかまです。
こちらが“世話役”という鎧を脱いで、ある程度弱さを見せること、本音を打ち明けることを心待ちにしているように感じる時があります。
本来の家族ならではの距離感をなかまは、よく知っていて、求めていて、叶うことを望んでいるように感じます。
そして、こうした私たちの真ん中に神様がいてくださる。そう思うことが、かなの家に来てからは増えました。ごめんなさいの気持ちがふとした瞬間に感じることがあり、必要なことが満たされるように感じました。
かなの家の生活にはつねに不足があり、祈りが切実にあります。
私は、これらのことに支えて頂きながら、今を生きています。