「考える私が静まるとき」 平石 祐哉
深い瞑想や祈りの時には言語や左脳の中枢が沈黙する。
アメリカの脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士の『WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方』(NHK出版)を読んで、印象的な一節に出会いました。
「僧侶とフランシスコ会の修道女を対象に、SPECT装置〔微量の放射線を出す薬を飲んでもらい、その検査薬が集まった場所から出る放射線を検知して、脳の活動などを画像化する装置〕を使って、瞑想や祈りの最中に脳内で何が起きているかを調べたのです。
そして、わかったのは、永遠のもの、神とのつながりを感じたり、宇宙との一体感を感じたりしたときに、脳の特定の場所が活動的になるのではなく、言語やそのほかの左脳の中枢が沈黙することでした」
深い瞑想や祈りの際に、脳のどこかが活動的になるのではなく、むしろ言語やそのほかの左脳の中枢が沈黙する。
これは興味深い話です。
中世の神学者トマス・アクィナスは晩年、神秘体験を経て、自分の書いた著作は藁屑のように見える、と言ったようですが、深い祈りの状態になるために言語や論理は一旦、頭から追い出した方が良いことに気がついたのかもしれません。
テイラー博士は、脳卒中で左脳の機能を損傷した際に、深い幸福感を覚えたといいます。
テイラー博士の本から人生を変えるほどの影響を受けたというマインドフルネス指導者の枡田智氏はこう書きます。
(枡田智『もう左脳に振り回されない 瞑想メソッドで始めるメンタル強化法』(大和出版))
「テイラー博士は、脳卒中で左脳の『考える私』が止まり、『感じる私』が目覚め、思考の殻から解放されました。
そして、過去の後悔や未来の不安が消え、人生の苦しみすべてが消え去りました。ただ純粋に『今ココ』にいて、世界を感じるだけになったのです。
それは、究極の幸せの境地、究極の安らぎの境地だったのです」
脳の言語が生み出す「考える私」は、自分と他人の境界線を引き、未来や過去に思いを馳せ、言葉を使って考え事をします。
一方で脳の中の「感じる私」は、思考の殻から解放され、今ココに生き、(考えるのではなく)世界を感じます。
現代では生きづらさを感じている人が多いですが、それは「考える私」の思考の強さが原因となっている場合が多い、と枡田氏は考察しています。
マインドフルネス瞑想や森林療法を行うことで、思考と感覚のバランスをとるように、枡田氏は説きます。
ラルシュかなの家に来て、知的障害のあるなかまと交流することで、感動したり、満足感を得たりする人たちがいます。
私もその中の一人で、2015年になかまたちと出会ったことにより、かなの家のアシスタントに導かれました。
なぜ少なくない人たちがなかまと関わることによって、感動を覚えるのか。
それはなかまとの関りによって「脳の中の『考える私』が静まる」ことが原因の一つなのではないか、と私は考えています。
かなの家にいると、言葉によらないコミュニケーションに思いをはせることが多いです。例えば大介さんは、「おいしい」「えりちゃん」など、限られた言葉しか話すことができません。
しかし左手で力のこもった握手をすることで、言葉のないコミュニケーションの世界に相手を誘います。
お客さんとしてかなの家に滞在し、大介さんと関わることの多かったアメリカ人の青年は「自分は神を信じていないが、なかまと関わることで『私にとっての神』を見出すことができた」と語っていました。
大介さんの「考える私」よりも「感じる私」を重んじるコミュニケーションが、アメリカ人の青年に「私にとっての神」と繋がる、祈りのような時間を提供したのではないでしょうか。
美佳さんは言葉を話すことができませんが、視線で相手を見たり、相手に寄りかかったりすることでコミュニケーションを行います。
言葉ではなく、視覚や触覚を通じてコミュニケーションを行う。これも「感じる私」を感化するようなコミュニケーションだと思います。
かなの家が所属するラルシュの憲章では「知的障がいのある人は、社会が必要とする洞察力、指導的役割、賜物を有しています」と書いてあります。一読しただけではわかりにくい文言です。
知的障がいのなかま、その中でも特に言葉を喋ることが難しいなかまたちの持つ「指導的役割」(leadership)とは何でしょうか。
それは、まさに人々を「考える私」の偏重から解放し、「感じる私」を導くことにあるのだ、と私は考えています。
2024年5月、イエズス会の柳田敏洋神父様がかなの家を訪問し、アシスタントにヴィパッサナー瞑想の初歩を教えてくれました。
その後、10月のリトリートでも再び教授してくれています。ヴィパッサナー瞑想は上座部仏教をルーツとする瞑想でして、柳田神父は、エゴイズムを克服しアガペに目覚めた人となるため、キリスト者としてこの瞑想を実践しています。
ヴィパッサナー瞑想の中に、息を吸う時の鼻孔の感覚を意識する瞑想がありますが、これなどは「感じる私」を前面に出す瞑想でしょう。
ラルシュもヴィパッサナー瞑想も、言語が生み出す「考える私」の偏重を正し、「感じる私」を導くようなところに共通性があるように思います。「感じる私」を呼び覚ますこと。これからの時代を生きる人々にとって、大切なことだと思います。