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「友になる」 佐藤 言(さとう げん)

 ラルシュ創立の歴史で知らなかった一面があらわになり、ラルシュ全体もかなの家も不安定な状況にいます。

 今まで頼っていたものがなくなり、これからは自分自身の言葉でラルシュ経験を語っていく必要を感じています。初心に戻ってラルシュ・コミュニティーの生活を分かち合うことができるこの機会に感謝いたします。

 私がまだ二十代の頃、かなの家の復活のお祝い(イースター)に参加したことがありました。当時、大学生だった私は春休みで暇だったと思います。私の両親がかなの家を始め、なかまの人たちとは同じ家で育ちました。休みの時に帰省すると、いつもかなの家の人たちと会うという環境でした。

 その復活のお祝い(イースター)には中村吾郎神父さんも一緒に参加してくれました。皆が集めっているなかで、吾郎神父さんが一人ひとりに「あなたにとっての復活って何ですか?」と質問しました。

 私の隣には、富士男さんというなかまが座っていました。富士男さんとは、私の子供の頃からの付き合いで、よく一緒に遊んでくれた人でした。自転車の後ろに乗せてもらい二人乗りをするのですが、調子に乗って富士男さんがスピードを出すものですから、カーブで転んでケガをしたことが何回かあります。

 自立するために入所施設を出て始まったかなの家は、新聞紙、段ボールを集める廃品回収で生計を立てていました。子供だった私は、廃品回収で遅くまで働く人たちの背中を見て育ちました。富士男さんもアシスタントとケンカしながらも、たくさん働いてくれました。

 施設から出るために、多くの努力が必要だったなかまの人たちが、廃品を集める仕事をしてくれたおかげで、今の私があります。かなの家の生活は大変なこともよくあり、富士男さんはというと、突然どこか遠くへ逃亡してしまい、結局警察にお世話になり帰ってきたり、酔って転んで血だらけになったり、嫉妬で女性アシスタントとぶつかったりと難しいときもありました。

 その富士男さんが吾郎神父さんの質問した「あなたにとっての復活とは何ですか?」に答える順番になりました。答えは「言(私)と友達でいること」でした。

 子どもの頃から入所施設で育った富士男さんは、職員と入所者という支援者・被支援者の関係ではない、弟のような遊び相手の私を友として見ていたと思います。私も富士男さんと遊ぶのが好きで、しかもよく怒られているところが私と似ていました。
 
 私の祖父は大学の教授で研究者でした。私の家族には学歴に対する誇りがありました。ところが、私は勉強に興味が持てず自慢できる学歴はありません。他にもいくつかの劣等感を持っていたので、嫉妬、猜疑心から親しい人間関係になるとうまくいきませんでした。富士男さんも私と似た感じで苦しんでいました。富士男さんはかなの家を去り、現在は東京の聖ヨハネ会のグループホームで暮らしています。

 私は子供の頃から外国に行ってみたいと憧れを持っていました。当時、フランスのラルシュは働けばお小遣いと、住む部屋、食事が出る外国人枠がありました。勉強もできない、手に職もない、お金もない私は、外国で生活するならラルシュしか選択肢はなかったです。運よくその機会をいただき、フランスのラルシュでアシスタントとしての経験を若い頃にできました。

 そのラルシュ経験をしたときに「貧しい人と友になる」という言葉に出会いました。なんの取り柄もない私はその言葉が支えでした。富士男さんが言ってくれたし、それならできると。フランス語が下手で役立たずの私のほうが「貧しい人」だったのですが、なかまやアシスタントは私と友達になってくれました。


 私がラルシュでもらったことは、友として受け入れられ、信頼された経験です。それは私の劣等感との長い旅でもあります。少しずつ癒されているのですが、今でも「私はダメだ」という不快感は本当に耐えづらいです。しかし、その不快感から逃げても堂々巡りです。状況はどんどんひどくなっていくことを考えると、AAの無力を認めるステップ1を思い出します。

 不快感もしくは恐怖感に留まり、何もしないで見ることが自己認知だと、禅の教えから学びました。不快感、恐怖感に駆られる私を、慈しみを持って接してただ坐る。AAならLet go, Let God(「手放して神様にゆだねる」「無為自然」)でしょう。

 幸いなことに、「復活とは言(私)と友達でいること」という最高の賛辞を富士男さんからもらいました。

 「私はダメだ、だから違う自分になるんだ」と自分自身に厳しくするのではなく、不完全な自分自身にやさしく接することができればと思います。

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