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毒親から物理的距離を置けるようになるまで①

親は絶対的存在だった子ども時代

私の家は、外から見るとそれはそれは恵まれた家庭だっただろう。

未就学児の頃から習い事を始め、小学校お受験も経験し、小学生になると平日は毎日習い事。土日や長期休暇は必ず家族旅行で遠出をし、海外にも連れて行ってもらった。
勉強はよくできたし、運動もできた。
家に帰れば、毎日暖かいご飯を作ってくれたし、よく眠れる布団だってあった。

とても家族らしい素敵な家族だ。
そんな平穏な家族を、私は子どもながらに「演じている」と感じていた。

母親はとにかく教育熱心で、かつ子離れのできない人だった。専業主婦だったので、普段関わるコミュニティは家族だけ。
未就学児の頃から、日本語も英語も書けるように、喋れるように教え込まれ、私より勉強が苦手だった下のきょうだいは毎日怒鳴られていた。

小学生になると、学校の宿題とは別に、母親が管理する通信教材が用意されていた。
予め答えのページは抜かれていて、赤ペンで、「◯日、ここまでやる」と書き込まれている。学校の宿題が終わるとその教材に取り掛かり、それも解き終わったら母親に丸つけをしてもらうため見せに行く。間違った箇所は熱心に教えられた。その甲斐あって、私は学校の中でも優秀だった。自分が誇らしかった。

しかし進級につれ、勉強内容も当然難しくなる。テストで100点は取れず、90点代になることもしばしば。そんなテストを持ち帰ろう日には、ものすごい剣幕で怒られ、なぜ数点を落としてしまったのか、「勉強不足でした」という言葉を出すまで説教から解放されなかった

その頃から、私はおかしいと思い始める。他の子は、テストで90点なら十分褒められる。
というか、私だって学校では褒められている。
でも、家では100点以外のテストなんて認められない。90点分の努力はすべてなかったことにされ、それどころか努力不足ということになる。
頑張っても頑張っても、私は母の愛をもらえないことに気づいた時期だ。

しかし、母のことをおかしいと思っても反抗の言葉を口にしたら、文字通り「殺される」と感じていた。いやむしろ、反抗しなくたって、「母は私のことなんて好きではないから、いつ殺されてもおかしくない」と本気で思っていた。今でも思うことはある。
実際には、暴力を振るったりなどもちろんなかったけれど、そう思わせるぐらいの恐怖と絶対服従を植え付けられていた。

卒業式だったか、学校のイベントで、サプライズで自分の親から手紙を貰うというのがあった。毒親持ちからすると、なんとハタメイワクなイベントだろうと思うが、当時は従うしかない。

外面は良い親なので、とても綺麗な日本語が並べられていた。もう、なんて書いてあったか思い出せない。でも、一般的に親が子に宛てる手紙例みたいな文面が並んでいたと思う。それを見て、「そんなこと、本心で思ってないくせに。いつも私を怒って、私のこと嫌いなくせに。」そんなの読んで、いまさら嬉しいなんて気持ちが湧くわけがない。
私は、家に帰って一人で泣きながら、もらった手紙を破って机の奥にしまった。

時は過ぎ、大学受験

口実を作って親から離れるには絶好の機会。逃すわけにはいかない。
ちょうど、家から通えない範囲にある大学に、とても行きたいと思える学部もあった。

勉強も準備もそれはそれは頑張って、合格を掴み取った。
親から離れることはもちろんだけれど、それ以上にその大学に通えることが私は純粋に嬉しかった。

早速家に帰って合格を報告すると、すでに泣き腫らした母親が一言

「家、出て行くんだね…まさか合格するとは思わなかった…」

心の底から悲しくなった。
なぜ、祝ってもらえないのか。
なぜ、合格したことを悲しんでいるのか。

ああ、この人は、私の努力も夢も幸せも、何も願っちゃいないんだ。ただただ、自分の側から離したくないだけなんだ。

心から、この大学に受かってよかったと思った。

次回、一人暮らし編

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