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自分の言葉で書く、喋ること

 今日から書く練習をしてみようと思う。どんな時にも短い時間で自分の考えをまとめ記すことは実現したい自分の一部である。
 先日、作家の高橋源一郎氏がラジオで自身の著書である「書くこと」の紹介をしていた。その中で特に印象に残っているのは、「全ての人が私で書き始める文章は同じではない、とても貴重な記録である。」といったことだ。
 人はなぜ書くのだろうか、自分を含む誰かのために言葉を介して何か記録に残さんとする。今日はその目的よりも書いている、あるいは喋っている言葉について考えてみる。
今私が書いているこの言葉自体はそもそも借り物だというのを確か「勉強の哲学」の中に見つけた。確かに言葉というのは自分の生まれる前からほぼ今の形で存在し、人が使用していた中に、言うなれば仲間入りさせて使用させてもらっているものである。だからあたかも自分の言葉として使っている気になっているが、その実ほとんど、借り物をつぎはぎしながら喋ったり書いたりしているに過ぎない。
 そんなことをひどく意識しだしたのは最近のことだ。言葉の意味を本当に理解しながら使えているのか?時々不安になる。例えば、意味と定義、概念。それぞれ必要があって生まれた言葉のはずなので、使用法やここで使うのも変だが意味も同じではないはずだ。でも明らかに違うことはわかっているが、それを説明できるかと言われると存外難しくはないだろうか?何を言っているんだ、そんな簡単じゃないか。という人はもうこの先読まない方が良い。
 先に進む。
喋る時にほとんどの場合、思考しながら喋っているという意識はない。言葉を自分のものとして操っている気になっているが、本当にそうだろうか?
 知ったかぶりをしている人や、胡散臭い話を上手にしている人に対して感じる違和感。その人が自分の言葉で話していないと強く感じる。
自分はそうはなりたくない。自分が一語一語を理解し、それを操りながら話したい。そんな状態が「自分の言葉で話している」ことになると思っている。
 その点外国語の勉強はそれを実感しやすい。明らかに他者からの借り物である言葉を、単語一つ一つ覚え、語順を気にしながら話したり、書いたりしていく。旅先でネイティブスピーカーに話が通じた時にその表現は少なくとも自分として操れている感じ、それが、私が言わんとしている「操れている」感覚である。
英語はもちろん日本語でも知っているけど使えない単語は山ほどある。本を読んでいて理解できるけど、日常の会話や普段書くことに使うことのできない単語はまだ自分のものになっていない。
 しかし、悲しいかな、一部のアーティストを除いて自分の感覚を表現する手段は言葉しかないことにも気づいた。だから自分の言葉を身につけたいと強く感じている。

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