意識と無意識
私たちは毎日さまざまなことを考え行動しているが、私という人間の行動をすべて意識的に制御しているわけではない。
朝起きたら目覚まし時計を止める。
起き上がる。
歩く。
顔を洗う。
歯を磨く。
口をゆすぐ。
まだ寝ぼけている状態でも、誰もがこうした行動をとることができる。これらは習慣化された、無意識の行動である。
生まれてすぐに目覚まし時計の止め方を知っていた人はいないし、起き上がることすらできなかったはずである。
過去の自分が理解したことを記憶し、それを必要なときに取り出し、私という人間の行動に役立てている。
長年の経験から理解し記憶してきたことは無数にある。言葉だけでも無数の記憶があり、こうした文章を読むときにも、パソコンやスマホに映し出された、言葉というさまざまな視覚的な「形」を認識し、その「形」に応じた記憶を必要に応じて呼び出している。
私たち意識は、無意識的に呼び出されたさまざまな記憶や感覚を使い、考え判断をしている。
無意識は広大な海のように広がっており、私たち意識はそれらの一部を認識している。
膨大な記憶があっても、その情報をいつ呼び出すべきなのか、「私」という人間にとって重要な情報は何なのか、そこには何らかの価値基準が必要となる。
すべてを意識的に考えるのではなく、無意識下に「私」にとっての価値基準を与えた情報を記憶し、必要なときにだけ意識下に呼び出すことで高度な判断を実現している。
習慣化された記憶は意識的な判断を通さず無意識的に、ほとんど自動で行うことが可能となる。
ただこれは「悪い習慣」のように、一度身に付ければ意識的な判断をしなくてもその行動を取り続けることができるが、それが「良い習慣」ではない場合は、意識的に行動を改める必要があるということ。
私たち意識は無意識という広大な海の中にいる小さな船のようなもの。「私」という人間の進路を適切な判断していかなくては、無意識の荒波に飲まれてしまう。