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エッセイ 『表現における恥との付き合い方』

「恥」のコントロールと作為性

 私は、年々お酒に弱くなってきたので普段はあまり飲まないが、
今回たくさん飲む機会があったので、その際にある実験を思いついた。

お酒を飲んで、ある程度「恥」から自由になっている状態で書いたものを、シラフに戻ってもそれに手を加えずに作品にしてみるというものだ。
人を傷つけるようなことを書いている以外は、「そっくりそのまま」手を加えずに残すという試みである。

このアイデアは、最近私が、映画『ナミビアの砂漠』における、
新しい映像表現の方法論に感銘を受け、色々と文芸に応用できないかと試行錯誤している実験の一つになり得るのではと思った。
その結果は後半に書く。

人様の目に触れる表現というのは、常に「恥」というフィルター、リミッターを通して行われる。
しかしながら、ナミビアの砂漠は、人の「恥」だけを映したような作品なのである。

どういうことかと言うと、本当の「人間」の姿、というのは、本来的に「恥」を含んでいるということだ。
この恥となるべき「姿」や「思考」を作為的にコントロールするほど、
キャラクターや作品世界は、人間(生命)や世界ではなく「情報」になっていってしまう。
つまり、虚構に近づいていってしまう。


そのため、私は、ナミビアの砂漠を観た時に、そのあまりの作り手の作為性の無い主役のカナというキャラクターに、
「映画で初めて本物の人間が映った」と感じた。
その生命の輝きたるや。

そのことに非常に感動し、
私は、自分自身の作品でも、出来るだけ作為性のない本物の人間を産みたいと思った。

ナミビアの砂漠、において監督・脚本の山中遥子さんが、
どのように、作為性の無いカナを脚本の執筆段階で生み出したのかという情報は未だ知る由もないが、
いかに、作為性を無くすかということで、クオリティ次第では人間を産めるのだという方向性を提示してくれたことの恩恵は大きい。

恥や恐怖心に負けて、どこにも到達しない人目を気にしすぎたものを書くくらいなら、そういうものを振り切って作品を作って行きたいと、私は普段から思ってはいる。
しかしそれでも、やはり夜中と昼間、シラフと酔っている時、精神的に元気で気が大きくなっている時と精神的に弱っていて恐怖心が増している時、
などでは、無意識的な「恥」の強度というのは大きく変わってくる。

では、「恥」に対する、対抗手段にはどのようなものがあるのか?
一つは、「クオリティ」だと思う。
恥を含む表現において、このクオリティが高いほど、作品は作者の身体から分離し、
作品単体の存在として自立するからだ。

例えば、ナミビアの砂漠において、主演の河合優実がスクリーン上でヌードになるシーンがある。
これは一般的に考えれば、ものすごく恥ずかしい行為である。

しかし、
(芸術作品に関心がない人が見るとまた違ってくるのかもしれないが、)
私は、その映像を見て、彼女が恥ずかしいことをしているとは感じなかった。
それが、クオリティが「恥」に勝利した瞬間である。

この時、主演女優のヌードの映像は、本人を離れ、作品自体、またキャラクター自体として自立しているのである。
その現象が起きることを理解しているため、本人も芸術作品においてヌードになることを了承するわけである。

そのため、作り手は、クオリティを生み出す技術を獲得するほど、
表現における「恥」からその分自由になれる、ということだ。

そして、二つ目の恥への対抗手段として、
受け手の存在を意識せずに表現されたものを手を加えずに作品にするというものだ。
これは、高野悦子著の『二十歳の原点』という作品を例に挙げることができる。
この作品は、読み手を意識せずに書かれた本物の日記が、彼女の死後に作品として掲載・出版されたものである。
そこでは、人が当然に持っている恥を含んだ彼女自身が表現されている。
つまりは作為性のない本物の人間がそこにいるのである。

他の例を挙げると、20代前半のアーティストの女性が、
一人暮らしをする自身の部屋に監視カメラをつけ、
ありのままに生活する姿を作品にするということをしていたのを観たことがある。
もちろん、本人はカメラの存在を知っているので、ある程度意識はするのであろうが、
そのままずっと生活していると、完全にカメラの存在を失念する瞬間というものがあり、そこを捉えるという点では表現が持つ恥を乗り越えた手段であったと思う。


作為性を減らす実験の記録


話を戻すと、
私が、今回作為性を取り除くために実験的にしてみたことは、
お酒をたくさん飲んで酔っている時の、恥や読者への意識が大幅に軽減している自分の「定点観測」の記録としての作品である。

なので、本来的な恥を含むその姿を、シラフ状態の理性的な自分の目線で客観的に分析してみようと思う。
それでは、実際どのようなものができたのか、作品を振り返ってみる。
今回出来た作品は4つ。

1つ目

この散文は、
かなりエロティックなものになった。
恥ずかしげもなく性的なことを描いているこのリミッターの少ない状態には確かに価値を感じる。
出来はともかく、恥から自由になっているからこそ書けるものということだ。
つまり、能力不足で書けないのではなく、無意識的な恥のせいで書けない(そもそも発想されない)
という勿体無い状態が、シラフではあることがわかる。

2つ目


この散文は、私の好きな女の子のタイプへの愛が表現されている。
人に対して愛情を示す、表現する、という恥を含む行為を
恥から自由になることで表現されている。
1つ目の作品と違い、過激性はなく、優しさと温かさを持ってはいるものの、
やはり恥の減少によって可能になった表現であると思う。

3つ目

この支離滅裂加減、最高である。
今回の実験で私が特に気に入っているものだ。
この統制されていないカオスが人間の本来の思考の姿ではないか。
文章の塊ごとに、内容や情緒が変わっていくこの感情の振れが面白いなと。
また、

「えっちでしょ?って。
 わかってる笑
 わたしもそう思うww だから恥ずかしいけど自信あるよ」
 クリスマスだし、見てもいいよw はいドウゾ

この部分などは特に、「恥」のリミッターがあると出てこない表現だと思う。
シラフでは出てこないような、潜在意識に潜むナルシシズムが表現されているからだ。

4つ目

これは、最近の私がしつこくしている、ナミビアの砂漠の分析をした雑記になっている。
この雑記においては、
シラフ時より文体の口調が乱暴になっていることを除けば、
いつも通り、気づいたことを種にして書きながら理論展開をして行っているように見えるが、
普段は出てこない
「宗教」「神様」「母親」「母性」
などのワードを多数使用し、アートとは何かについての自分の中での考えを深めている。

やはり、普段だと、
「宗教や神様、は話が壮大すぎるため自分が語るには荷が重い」、
「母親や母性について語るのは小っ恥ずかしい」、
のように、無意識でかかっていたリミッターが外れて、
ただ、現象として客観的にそういったアイデアを扱うことができている。

まとめ


今回の実験では自分的には面白い結果が得られたと思う。
しかし、ただ、支離滅裂なカオスな文章だけを小説作品にするというのはやはり無理があるので、どういう塩梅でそういう要素を取り入れていくかが大事であると思った。

それは例えば、作為性がない文章を編集して、最低限のストーリーラインを作るとかそういったことであろうか。
それを映像でしているのが、ナミビアの砂漠なのかもしれない。

これからも作為性の無い表現の方法というのを考えていきたいと思う。

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