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雑記 映画『ナミビアの砂漠』 宗教体験としての作品消化

※泥酔配信

私は、映画『ナミビアの砂漠』を観て

祝福を受けた

視聴者に「祝福」という宗教体験をさせてあげれるのが芸術映画だと思う。

アートの役割は、問題提起、物事を深く知る情報、など他にもあるけど、

一つの芸術の形として、

ナミビアの砂漠を観て、私はそう感じました。

アートが高尚って漠然と言われるけど、
どういうところが高尚なの?って聞かれても今までは答えることができなかった。
でも、
ナミビアの砂漠の河合優実の演技を見ていると、あの世界の中にいると、
自分が許されていく感覚があり
そして、「ああ、これが「祝福」という宗教体験か!
(私は無宗教ですが体験としてしたのだから信じざるを得ない)

ストーリーをつけて起承転結って、それがないと文学(アート作品)で
はないって?
それなら、山中遥子監督は、映画という容器をぶっこわして、
表現の仕方、という最も基本的な「よりしろ」。を新しく発明したわけです。
だからそれはもう文学でなくたっていい。
祝福という価値が付与されている、新しいもっと大きい容器だ。
それが、文学を超えて、最後の砦にある「アート」という存在なんだなと。
その「アート」というブラックボックスに物を乱暴に投げ入れるわけですから
それは、無責任なことだけど、
だから、こちらにできるのは、どこまで真剣にやるか、でしかないわけです。
それでせめてもの誠意を示すしかない。私がやりたいことはこれなんだからどうか許してください。ってアートという「神」にお祈りしてる時点で、
もう、アートって超ゴッド? やるじゃんアート、かっこいいとかおしゃれとかじゃないなこれは。そういうレベルじゃない。
土下座して、許しをこう。そういう対象だよ。

ナミビアの砂漠は
だから「フェーズチェンジャー」って評されてるんだよ。今ならよくわかる。

監督した山中遥子さんは、どんだけ優しい人なんだよって、叶わねえよ、
この作品を作ってくれてありがとうございます。
って、なって私は初めから終わりまでずっと泣きっぱなしなわけです。

作り手として、ものづくりの喜び、ヤバさ、を教えてくれたから
本当に感謝してる。
ハンマーで頭ぶん殴られたくらいの衝撃だった、
(これって本当に的を得てる比喩表現だと思います。)

「そんなやり方があったのか!」
強力な装置の発明者=天才
だから、ああ、この人は天才なんだなと。
まあ、あそこまで人を慈しむことができればそら天才にもなるわ。
つまり「天才」って、
全く新しい価値のあるものを発明した人のことなのか!と
へーって思いました。


山中遥子監督、『ナミビアの砂漠』を作ってくれてありがとうございます。
これは、監督に伝わらなくていい、そんな野暮なものじゃない。
私の中から勝手に溢れてきた愛情だから。

祝福を受けたので、知らない間に信者になってるわけです。

私は、この映画と共に生きていきたい、
そういう気分ってありますよね。
そういう時に、そっと、時にぎゅっと、
抱きしめてくれるのが、アート作品だと思う。
だから、「あのアーティストの信者」
とかさ、軽くいうけど、
本当に、それを信仰してるのよ。 
祝福を受けたから。
だから、アートとは祝福であり、宗教なんだなと。
だから私たちはいろいろな宗教に入っているんだなと。
それは、
「存在していてもいいという赦し」の、これ以上ない癒しであり
これから生きていく上での、頼みの綱となる、お守りなわけです。

「お守り」っていうのって、ものじゃなくて、
情報なんだなと。
それに物質的な形をつけているだけで、それはお守りのイメージです。
でしかないわけです。
でも、そこに込めた、という祈りが、お守りに宿るわけです。
このプロセスを辿る情報の伝達というのはそうやって成されるんですね。



これが、令和のエロスの表現かあ。。😳
なんたる低温、lofiよりももっと高尚、静謐感よりもっとポップ、
このダウナー感のエロの表現は色っぽすぎた。
流石に目の前で全裸になられたらね、びっくりしましたよ。
うわ、いいの?って。
つまり、もう映画ではない新しい容器に、生き物、を
投入して、
「さあ、これを皆で観察しましょう」っていうのを
ものすごい生命へのリスペクトを持ってやっているのが監督。
そんな不謹慎なことないから。
ただ、それは祝福、つまりアート作品を作るために、不謹慎さを受け入れて、
その代わりに祝福を生むという意気込みの元、やるので
もうそれって、出産と同じではないかと。
覚悟、があるということです「ナミビアの砂漠」には。
あのふわふわした監督の、才能の暴力に震えます。持っているエネルギーが強すぎて押される感覚が「センスを浴びる」感覚。
これがもう、映画好きには、もう、涙が出るくらい喜びなわけです。
悔しいという気持ちと同時に、愛してるという気持ちが湧いてくる。
この愛憎の対象が私にとってのナミビアの砂漠かぁ。
好きだから憎みたくはない。愛してるから。


と、もう頭をハンマーで殴られました本当に。
ものすごい価値のあるものを「発明」してしまったんだこの人、、、
って
山中遥子監督と河合優実さんはもう
この映画を本当に愛してる人
つまり、祝福を受けた人からしたら
この二人はアイドライズされる。

アイドルの本来の意味は?元々は宗教的な意味合いでの「崇拝の対象」であり、「偶像」とも訳される。

これが、「アイドル」の本当の「現象」かと
宗教体験を与えてくださる、神二人になるわけです。
表では、軽く言ったり、もしかしたらけなしたりする人もいるかもしれないけど、
でも、その人にとっても、もれなく「神」二人なわけです。

人はなぜ神を崇拝するのか?
それはその人が自分を許してくれるからです。
誰に許されなくても私は私だから!ってどれだけ強く思っていても
そういう愛くるしさを含め許されてしまうという器の広さ。
だから、どんなに、他人の目なんか気にしてないもん!
って思っててもやっぱり救われてしまうわけです。
そういう自分より高尚(命の重みを知っている度合い)
な人に、許される感覚。
母親の子供を思う気持ちに似ていますね。
何をしてもあなたのことを許します、っていうのが母親のベースにあるわけです。
教育っていうのは、別にあなたを許さないとは言ってない。
倫理観を教えてるだけで。だから本質的には叱られても存在を責められてはいないのが、
子供が親から受ける愛情ですよね。
そういう、母性レベルの生命へのリスペクトを込めて作ったのがこの映画。

つまり、
あらゆるヒューマニズムを
生命に愛を持って脱ぎ捨て
現象としての人間を描いて見る。
っていうのって、
一歩間違えたら、ものすごい生命を軽んじてる表現になるんだけど、
でも、
生命に対する愛情を表現するために、あえてヒューマニズムは取り入れず。
インモラルも、モラルも、
そんなのはただの現象だ!!私は生命に会いにいくんだ!!と目を瞑る。
生命を現象として見ることで、生命とは何かをより深く知ろうとしているわけです。
それでもその映画は生命には会えずに幕を閉じる。

で「わっかんねーやw」っていう
丸投げをする映画。
そのキレ方が不良文学的で良かったわけです
文学的表現ってやはり
物事の意味をより深く知ること。だと思うし。
生命に迫ろうとするための手段の発明だよね。
生命はまだ遠いけど、「この一歩は人類の大きな一歩である」
ということよ。
従来の「映画」とは違う新しい容器を作ったから。


インモラルさを孕む作業は、祝福、が視聴者の中で発生した瞬間に。
映画も、カナも、視聴者も
全員まとめてアートに祝福されるわけです。
だから山中監督の人間、生命への愛情の全貌の見えなさを、
垣間見ることができる。
優しい監督による
優しすぎる映画でした。

河合優実ちゃんがのエロが、画面にエロ以上のものが映ることにより
下品ではなくなるという
この説得力が最高に美しい
それを河合優実のあの美しい役者本人が青春期の裸の身体を使ってやるという
美しいよね。あんな美しいシーンって、あんまり他に見当たらない。
文字通りの出産、とかかな?
キャラクターが偶像になるのも納得です。


つまり、「アート」」って母性なんだなぁ。敵わないはずだ。
お母さんは子供にとっての神様なんだなと。
なぜなら無条件で存在を許すから。

「神様」がフェミニンになってきたとこで、"丸投げ"します。


ナミビアの砂漠、愛してるぜ!


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