行間男
俺はいま本を読んでいるところだ。
主人公は四十二歳の男で職業は会社員、いまのところわかっているのはそれだけだ。
男の顔立ちや性格がわかるような、具体的な描写はいっさいない。作者が怠けているのか、それとも何か別の意図があるのかはわからないが、俺はそいつの顔を知りたいし、そいつと話をすることができたらいいのにと思っている。
もちろん、そんなことができないのは知っている。ただ俺はいま、ずっと詰まらないのだ。
この町には、知り合いが一人もいない。そもそも、町に人がいない。
スーパーのレジもガソリンスタンドもみんなセルフサービスで、通りを歩く人は見かけない。ただ、家のなかには人影が見えるし声も聞こえる。それが余計に自分をさみしくさせるらしい。
さみしいという漢字はふたつあって、ひとつは「寂しい」でもうひとつは「淋しい」だ。
林の中を水がちろちろ流れるようにさみしいから、淋しいなのだと誰かに教わった。だから俺はさみしくなると、いつも誰もいない林のことを考える。
俺は、本を閉じた。
そのせいで本の時間はとまったが、登場人物たちは本に内緒で何かを囁いているかもしれない。俺はくすくすと笑いながら台所に行き、牛乳を温めてホットチョコレートを作ると、部屋に戻った。カップを置いて本を開くと、本がさっきより軽くなったように感じた。
風呂から出た主人公は、身体を拭きながら鏡を覗き込んで自分の顔に見とれているが、そこに映っている顔は俺には見えない。作者はなぜこいつの顔を明かさないんだろう?
チョコレートドリンクを口に含みつつ、行間の先の鍵カッコを見ていると、どこからか、「おうい」と言う声が聞こえてきた。
俺はすぐさま開いたページを逆さまに本をテーブルにのせた。部屋の中を見渡したが、もちろん誰も居ない。誰かが忍び込んできているのだろうか?大きな木の枝の影がカーテンに映っているのが見えたが、窓の外に人通りはなかった。
「おうい」
また声がした。低い男の声だ。
「ここだ。本の中だよ。行間にいるんだ」
俺は本を見た。鍵カッコのなかには、「もうすぐバスが来る」と書かれているが、「おうい」などという文字はどこにもない。
「おうい、なんて書いてないぞ」
俺は、誰もいない空間に向かって言った。
「違う違う、ばかだな。カッコの中じゃなくて、行間を読むんだ。ばか」
見えもしない声に、ばかばかと繰り返された俺は腹が立って、空間に向かって大きな声で言いかえしてやった。
「ばかはおまえだ」
声は、思っていたよりも広い家に響いた。これは淋しいではなくて虚しい、だろうか?滑稽な、だろうか?俺は椅子から立ち上って声に言った。
「行間を読むというのは意図するところを読みこめという比喩で、実際に何かが書いてあるわけじゃないんだよ」
すると、声が答えた。
「しかし俺は行間にいるんだぜ。よく見て見ろよ。この、ばか」
俺は額をこすりつけて行間に目を凝らした。染み虫みたいなちっぽけな男が手を振りまわしている。
「わかったかあ」
男は振りまわしていた手を下ろすと、行間にぺたんと座り込んだ。
俺は椅子に座り直し、気持ちを落ち着けるためにホットチョコレートをすすった。冷めてきたせいか、さっきより甘く感じられた。行間男は、俺を睨みつけている。いや、小さくて表情までは見えないがそんな気がしたのだ。
「言っておくが、本物の行間はそんな生易しいもんじゃないぞ。ここには深い谷とかブラックホールみたいに、なんでもぼんぼん吸い込むところがある。ゴミ捨てを三回さぼっただけなのにゴミ屋敷になって、猛烈な臭気を漂わせている家がある。突然十年前の恥かしい思い出が蘇り頓狂な声をあげてしまう場所もあれば、美男美女が舞い踊り美酒馳走がとめどなく提供されるために三年が三日に感じられてしまう時間だってあるし、とにかく、いろいろありすぎるほどあるのだ」
俺は、呆れかえっていた。こんなやつのために、俺は読書を中断し、俺の主人公が脇役に回されているとはな。
「いいかよく聞け。行間というのは概念なんだ。実際には書かれていないが、文章をつぶさに読んでいけばそこに隠された表現が見えてくるという意味なんだ。ゴミ屋敷とか酒池肉林なんかあるわけがないし、仮にそれが概念だとしても、それだってひとつの行間にあるんじゃなくて、それぞれの本のなかにあるんだからな。お前はそれを、ごちゃ混ぜにしている」
「ばかめ」
「あっ、こいつ。またそれを言うか」
「今言ったことはぜんぶ嘘だ」
「はあ?」
「ここはまっしろくてしろしろの、何もねえただの行間だ。ばか」
そう言うと、行間男は腕を組んでばたんと反り返ってしまった。いっそのこと、つぶしてしまおうか。だがそうすると、こいつも本の中の一員になってしまいそうだ。行間男は自分で反り返っておいて起き上がれなくなったようで、釣りのついた半ズボンを履いた両足をばだばたさせてもがいている。白いシャツは皺々、そのうえにだぶだぶのカーディガンを羽織っている。おおよそ、どこぞの本から拾った服だろう。
俺はその様子を少し観察してから、指の先でちょいと押して掬い上げやった。行間男はぜいぜいと息をつきながら起き上がると、俺を睨みつけている。いったい俺になんの用があるというんだと問うと、行間男は首を横に振った。
「俺の家で、見知らぬ男が俺をじろじろ見ているから呼んだのだ」
「ここは俺の家だぞ」
「じゃあ聞くが、お前はどうしてこの家にいるのだ。そもそもこの家はなんなのだ、この町はなんなのだ」
「ただの家だし町だ」
「この町には人がいないぞ」
「人影を見た」
「そんなの木とか葉っぱとか道にうつった影と同じだぜ。前の行の影だ。おまえだって、この本を読んでいる誰かの頭のなかの切れ端かもしれない」
「じゃあ、おまえはなんなんだ。俺が本を読んでいる誰かの頭の切れ端なら、おまえはその本にいる残影か。いや、何を言っているのかわからなくなってきた」
「そういんもんなのさ。行間には何でもある。ブラックホールも…」
「もういい、もういい」
これ以上話していても、埒が明かない。行間男はまだなにか喚いていたが、俺が本を閉じた途端に静かになった。チョコレートドリンクを飲み干しても、まだ甘いものが欲しい。というより、甘いものという概念がほしい。行間に隠れていないだろうか。
キッチンに行き、粉に卵と牛乳と砂糖を入れて焼いた。バターとはちみつを溺れるほどかけて、立ったままむさぼるように食べた。それから部屋に戻ると、俺はもう一度本を開いた。
念のために、さっきとは違うページを。
行間男の声はしなかったが、物語はなくなっていた。いや、正確には、活字がなくなっていたというべきか。かわりに三歳児の手によるような落書きが描いてある。他のページも同じで全面ピンクに塗りつぶされていたり、穴凹だらけだったりしてどこにも文字はない。四十二歳の主人公もろとも、すべては消えてしまったらしかった。
俺は部屋を出た。さっきより廊下が長くなっている気がする。錯覚ではない。いくら歩いてもえんえん終わらない。この家は俺を愚弄しているのかそれとも幻覚でも見ているのか。
窓の外で何かが動いている。道は両脇に家を抱えてせり上がっていて、先が見通せない。右側に青い屋根の大きな家があり、垣根から突き出すように夾竹桃の木が真っ白い花をつけている。その少し先の、電柱の陰に人が動いているのが見える。男なのか女なのか、若いのか年寄かもわからないが、人のシルエットが電柱に手をついて寄りかかっていた。ちゃんと服を着て靴も履いているし、手も足もあるのに、シルエットだ。俺は玄関に向かって走った。すると、あんなに長く感じられた廊下が一瞬で終わって、あやうく扉にぶつかりそうになった。
外に出る。風がもんやりしている。シルエットは双眼鏡を反対から見たように、近づけば近づくほどぼんやりしていくみたいだ。
「こんにちは」
俺は人に向かって声をかけた。
「人に会うのは久しぶりです」とシルエットが言った。
声を聞けば、少なくとも男女の区別くらいできると思ったが、それは機械で作ったような声で、年も性別も感じられない。
「僕は四十二歳です」
「え…」
人のシルエットは右に左に揺れているように見えた。目を凝らし見定めようとしたが、くっきりするのが怖くなってやめた。
「もしかして」
「ええ、さっきまであなたが読んでいた本の中にいましたよ」
「そうなんですか?実をいうと、おかしな行間男が現れたと思ったら、物語が消えてしまったんですよ」
俺は今、主人公に言い訳をしているのか。シルエットは動揺することもなく、揺れながら言った。
「あなたが考えないから、僕は輪郭すらもてないんだ」
「それは俺のせいじゃないです。作者のせいで…」
「違いますよ。作者なんか関係ない。たとえ目鼻口皺にいたるまで描いてあったとしても、あなたが考えないことには始まらないんだ」
「そんなもんですか?違うと思うけどな。なんでもかんでもはっきりさせなくたって、いいじゃないですかねえ。ほら、読み手の想像にまかせるとかなんとか」
「勝手なこと言わないでくださいよ。あなただって僕の顔が見たいと思っていたんでしょう」
「そんなことまで知っているのか?」
「こちらが何も知らないとでも思ってたんですか」
「怖いなあ、おちおち本も読めやしない」
俺は笑ったが、シルエットは黙ったまま揺れている。本は気楽な娯楽だととらえられて、気を悪くしたのか。主人公は作者の投影だというから、言動には気をつけるべきだったのに。
「悪かったよ」
「なにをあやまってるんですか」
「いや、べつに」
面倒な男だ。男かどうかもはっきりしないし、今や四十二歳かどうかもぼやけて滲んできている。どんどん滲んで消えそうだ。俺は慌てて、それでこれから君はどうするんだいと優しく尋ねた。
「この町で暮らしますよ。ここは、そんな人で溢れているんだ」
「そうだったんだ。だから影ばっかりで、人を見ることがなかったのかな」
「あなたは?」
「なに?」
「いえ、いいです」
「気になるな、言いかけてやめないでくれよ」
シルエットの向こうに、無数の影が歩いているのが見えた。
「あなたは人じゃありませんね」
「人じゃない?」
「箱ですね」
「箱?箱って、あの四角い箱」
「それ以外に何があるんです。ただし中は空洞です」
空っぽな人という比喩か。
「見た目は人だ。箱の中にいるのか、箱を抱えているのかどちらかに見える」
「何が言いたいんだ」
「箱を開けたらどうですか。ただし、開けても何も出てこないでしょう」
なんだか無償に腹が立ってきた。
「どうしたらいいんだろうねえ」と、わざとおもねるように聞いてやった。
するとシルエットは、思いがけないことを言った。
「本を書けばいいんじゃないですかね」
「本?そんなもん書いたこともない」
「四十二歳男のことなら書けるでしょう。あれはもともとあなたの話なんですからね」
それから俺は家に戻った。机の引き出しを開けると、いつの間にか鉛筆と原稿用紙がどっさり入っている。
何から書いたらいいのかな。
「おうい」
声がした。
「なんだよ、まだ行間もなにも概念のかけらも浮かんじゃいないんだぞ」
「淋しいと思って、出てきてやったんだ」
俺はキッチンに行き、戸棚から木苺の酒瓶を取り出した。酒を醤油差しに少し注ぎ、一番大きなマグカップに残りを全部注いだ。窓の外を見ると、街灯が灯っている。どうやら、夜になったらしい。
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