わたしの家 その三
仕事に行ったら、頭がぼんやりして上司が霧に包まれたように手のひらしか見えない。同僚が霧を引き裂いて現れた。
「今日は、どうもぼんやりして、と私が言うと、五里霧中というかんじだねと同僚が言う。
「靄は一キロ以上で、霧は一キロ未満らしいよ」
「そうなんですか。
いつだったか、大量の洗顔料を流しに捨てて、その泡がビルの外の街中まで溢れて町中を泡にしたというニュースを思い出した。
「ところで、この書類なんだけど」
紙が三枚、霧のなかから出てきた。
「一枚になっていると見やすいと思ったもんだから」指示もぼんやりしている。
「ぼんやりしていてもなんとかできそうです」
そうは言ったが、霧が濃くなって苦心していると、電話が鳴った。どこにあるのか見えなくてあせっていると、「もしもし」と声がする。
まだ、受話器をとっていないのに。もしかすると、霧の中にいるのだろうか。
「どちらさまでしょう」
私は、霧をも引き裂かんばかりの大きな声を出した。
「動く足、膝を曲げて腿を持ち上げてまた下ろすという動きを繰返すと、階段を登ったり下りたりすることができるのだ」
「それがどうしたんですか?」
「貴様がどこでどのような気持で足を上げようと下ろそうと、階段を昇ったり下りたりしていることに変わりはない」
「だからそれがどうしたというんです」
「忘れないように」
五時になって外に出る。まだ霧は晴れないが、すぐそばに誰かがいたので連れ立って駅まで歩く。
大変ですねー、疲れますよねーなどと言いあっているうちに、どこかで相手がいなくなったので、階段をゆっくり上がった。私はさっきの声を思い出した。たしかに家の階段を上がるのと同じ足の動きなのに、たどり着くのは彼のいる場所ではなくて、駅だ。
電車に乗り込むと、ドアの近くで女の子が文庫本をめくっている。それが乱暴で、ページが引き裂かれて言葉が落ちる。拾って読もうとすると言葉は電車の床を転がって行ってしまったのであきらめる。ドアが開いて、大量の言葉が降りて行ったがそれは本ではなく人間だ。家に戻ると身体を湯につからせ、野菜米肉などを摂取させ、睡眠に落ちた。夢の中で落ちた文字を読んだと思ったのに目が覚めたら一文字も残っていない。
また自転車に乗り、一時間近く走った。生まれた家の前には、公園がある。公園は思っていたよりもぺたんとしていた。もっと記憶と違うかと思っていたのに、遊具も、大きさも記憶のなかにあったのと変わらなかった。公園をぐるりと添うようにどぶがあるのも変わらない。
乾いたどぶはきれいだったので、どぶのなかを歩いて進んでいると道の向うから同じクラスの嫌いな男子が歩いてきた。
「どぶにいるぞ、こいつ」
「いるけど、だからなんなの」
「どぶだぜ。どぶどぶ。どぶおんなー」
「どぶしか言うことがないわけ」
「うるせえ」
助け舟を出してくれる別の男子がいないので、嫌いな男子は周囲をきょろきょろ見まわしながら立ち去った。私はどぶからあがると、自分の家と対角線上にあるまさとしの家に入って行った。
「まさとし、いる?」玄関を勝手に開け放つとすぐに、 おう、と言いながらまさとしが出てきた。
「漫画読んでいい?」
「いいよ。何読む?」
「ドラえもんを一巻から読みたいな」
「いいよ。おれも読む」
焦げ茶色の丸いダイニングテーブルに並んで乗っかって、ドラえもんを読みながら足をぶらぶらさせていると、弟がやってきた。
「おねえちゃん、遅いよ」
「ひろしも来たの」
「うん。何読んでんの?あ、ドラえもんか」
ひろしはドラえもんを巻数もみないで適当に拾い上げ、隣に座って足をぶらぶらさせるが、読み始めずにぼんやりしている。
「読まないの」
「おれは、おねえちゃんをまってるだけだから」
しばらくすると、まさとしのお母さんがやってきた。
「やべえ」とまさとしが言う間もなく、お母さんは、私たちの太腿をべんべんべんと木管楽器でも叩くように左から右に、計六本分叩いた。驚いてテーブルから降りた。三人でごめんなさい、とあやまる。まさとしのお母さんがうなづいた。私は、弟に悪いことをしたと思った。
それから私と弟はまさとしの家を出て、自分たちの家に向かった。家は、私たち一家が去った時とさして変わっていないが、玄関とベランダはきれいに補修されていた。
「ねえちゃん、あの腐りかけたベランダ覚えてるだろ」
「あれね。木造なんだもん。そりゃあ、腐るよね」
「怖かったよ」
「べつに怖くはなかった」
「嘘だね。ねえちゃん、洗濯物、家のなかに干してたじゃん」
私たちはしばらく家を見ていた。
「夢のなかに家が出てくると、決まってここなんだよな。今のマンションじゃなくて。だけど、俺、記憶力がないからところどころぼやけてて、夢の中だと階段がなかったりするんだよ。そのせいでどうしたって二階に行けないんだ」
「それで今日、ここに来たの?思い出せるように」
「うん。でも、外から見てもわかんないな」
「きっと記憶力のせいじゃなくて、そういう夢なんだよ」
「最近は違う家を夢に見るようになったよ。いつも同じ町なんだ。駅前に小さな露店が並んでて、まるでお祭りみたいなんだけど人はいないんだ。俺の家は白い団地の一階なんだ。一階なのになぜかエレベーターに乗って部屋に行くんだよ。エレベータが開くと、すぐそこが部屋なんだ。団地とは思えないくらい部屋があって、俺はあそこをゲーム部屋にしようとか、あそこで飯を食おうとか、あの広い和室に布団を敷き詰めて転がったら楽しいだろなあとか考えてるんだけど、なぜか四畳半の狭い部屋に閉じこもって、飯を食って寝るんだ」
「うらやましいような、さみしいような話」
「俺もそう思う」
二階の窓が開いて、中から女の人が出てきた。胸元のポケットから煙草の箱を取り出して、気持ちよさそうにふっかりと吸いはじめた。
「見てるの、見られるぜ」
「大丈夫だよ、見られたら前に住んでいたものですって言えば、もしかしたら階段を見せてくれるかもよ」
「俺、別にいいよ」
「あの人も、前の住人のことを思い出すかな」
「前の住人って、俺らのこと?ふつうは思い出さないよ。いや、思い出すとか言わないだろう。知り合いじゃないんだから」
「それもそうか」
「ねえちゃん、今日は喋り方が普通だね」
「まあね、あんたに悪いことをしたから」
「なんのこと」
私は黙っていた。弟もそれ以上何も聞かない。私たちは公園に行くと、ブランコに座った。ブランコの向かい側は砂場だ。むかし、ブランコからそこに着地しようとして鼻の骨を折ったクラスメイトがいた。
「道を歩いててもうすぐ家につきそうになるときに、家のことを思いだそうとすると、うまく思いだせないことがあるんだ。玄関とか台所とかおれの部屋が、壊れたカメラで撮ったみたいにぶれたりぼやけたり、逆に妙な形に固定されたりしてるんだ」
「うん」
だから、家が近づいたら家のことは考えないと弟は言った。
わたしの家 その四最終回 に続く
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