あの人は、誰なのか?
果たしてその人は女なのか男なのか問題を提示する方法に、いつも立ち止まっている。
小説(らしきもの)を書いているとき、自分はいつも、できるだけ早く主人公や登場人物の名前と、女なのか男なのかを示したいと思っているのだけれども、性別については、いったいどうするのが正解なのかと毎回悩む。
年々その悩みは複雑さを増してきているのに、実際の文章にはほとんど進化がない。
性別を表すのに、昔は「これ、こしあんじゃなくて粒あんだったわ」みたいな、その昔女性らしいと言われていた語尾を使っていたんだけれど、考えてみると女である自分自身は、そんな語尾を使ったことは一度もないし、使っている人を見たこともない。男性の場合は「だぜ」とか「だろ」あたりか。「だろ」はよく耳にするが、「だぜ」は小学生御用達という気もする。
私の大好きな小説に、津村記久子さんの『個性』という短編がある。大学の夏期講習が舞台で、主人公は仲間たちと何かの課題を進めているらしいのだが、そのうちの一人、坂東さんの洋服や髪型がある日を堺に猛烈に変化していくというところから物語が始まる。
とてもおもしろいので何回も読んでいるのだが、私はずっとこの衣服が激変する坂東さんのことを「男の人」だと思って読んでいた。津村さんは人物に名字しか与えないことが多いし、容姿を具体的に表現することも少ないので勝手なイメージで読み進めていたのだけれども、何回目かの再読でもしかするとこの人、女ではなくて?と思うようになったのだ。
ぜんたい、書き手の性別と主人公の性別は一致していると思われるフシがあるような気がする。日本語の特性として、主語を省いたり、「She」とか書かなくても良いので、十ページくらい主人公がどんな様子なのかわからないこともある。
いまの時代、外国語で書かれた文章はどんな進化をしているのだろう?考えてみると、下の名前をつけたところでそれが「男」か「女」か断定するのはどんどん難しくなっていく気もする。自分は三人称で書いているときは、途中で「彼女は」などど書くことで表現しているのだが、一人称だとそれもできない。
ここまでくると、性別を示すことにいったい何の意味があるのかすらわからなくなってくる。『個性』の坂東さんを、私がいまだにどちらともつかず読んでいるように。最初のすりこみである男性であって欲しいなと思いつつ、違っていたら津村さんに申し訳ないようにも思えるし、でも読者の好きでもいいような気がするので、まあ、どっちでもいいかという曖昧な結論に至りながら読み返している。
いつだったか、川上弘美さんの『センセイの鞄』の書評で、「主人公の職業や家族などの様子が書かれていなくて希薄」みたいな文を読んだことがあり、この人は本当にこの作品を読んだのかな?と疑問に思った。職業を知りたい、書いて欲しいならわかるんだけど、『センセイの鞄』って、そういうことをうんにゅん思う小説なのかな、と思ったと同時に、是が非でも、人間の性別と仕事と家族構成みたいなもんが必要だと感じる人はいるんだな、と違和感を覚えた。
ヘビメタが猛烈に好きです、とか、週に三回は回転寿司を食べます、とかのほうがその人の手がかりになりそうだし、楽しそうだなと自分なんかは思うのだが。
まあ、自分は仕事うんにゅんが全然書けないのでそのへんをごまかしつつ、やっぱり「粒あん」より「こしあん」が好きだぜ。