
憲法第9条の理解が変わる、『証言でつづる日本国憲法の成立経緯』を読んで
西修さんの一連の書籍は、私の蒙を啓いてくれるものとなりました。憲法について読み進めていくなかで出会ったものですが、私のというより、世間一般の誤った理解について正してくれるものとなりました。憲法9条をどう理解するかという点で、何があっても闘わないという戦争放棄を意図した条文ではないということを、その成立過程から教えてもらいました。
西さんの『吾輩は後期高齢者の日本国憲法である』と『図説 日本国憲法の誕生』を読んだ後に、『証言でつづる日本国憲法の成立経緯』を読み、どれも一般向けに読みやすく書かれていてお薦めではあります。最初の本は西さんの落語好きがでているところ、2冊目は写真など歴史的資料が盛り込まれていることなど、それぞれのいいところはありますが、憲法の成立に関わった人たちの証言を盛り込んでいる点で、3冊目が最も説得力がありました。ですので、今回は3冊目の本から学んだことを中心に取り上げていきます。
自衛のための戦争は最初の草案から合憲だった
憲法改正はマッカーサーからの示唆で、日本側で草案づくりがされていました。ところがそれが出来上がる直前に、その案文が毎日新聞にスクープされてしまうということが起こりました。
それをGHQで英訳して、マッカーサーもそれを読み、大日本帝国憲法とあまり変わらない改正案であることを知ります。日本側から彼らの意に添うものがでてくることはないだろうとの判断から、マッカーサーがGHQの民生局に草案をつくらせることにしました。そのときの局員への指示として書かれたのが、マッカーサー・ノートだと言われています。そのノートは現存しておらず、そこに何が書かれていたかは諸説あってはっきりしませんが、天皇制のことや封建制度の廃止などと並んで、戦争の廃止に関する次のような原則が示されていたようです。
国の主権的権利としての戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえも、戦争を放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本の陸海空軍も、決して認められず、いかなる交戦者の権利も、日本軍隊に決して与えられない。
この原則がそのまま残っていたら、日本は自衛のための戦争もできない国となったのですが、アメリカ側の草案作成の過程で、「自己の安全を保持する手段としての戦争」については一局員の判断で削り、それについてマッカーサーのほうからも特段指示がでることもなく、そのまま日本側に示されました。
その局員というのが、ケーディス大佐で、西さんのインタビューに次のように応えています。
私が第9条の原案(マッカーサー・ノート)から、「自己の安全を保持するための手段としてさえもの戦争放棄」の部分を削除したとき、これで日本は防衛力をもつことが可能になり、また国連の加盟国にもなることができると思いました。
日本側に示された日本国憲法草案の段階で、自衛のための戦争はできることになっていたということで、その草案の日本語訳が巻末に掲載されているので、読んでみていただきたいのですが、そう説明された上で読めば、確かにそうとも読めるという条文なのですね。
芦田修正によって自衛戦争はできることをより明確化
とはいえ、どちらともとれるような文章であることは確かで、自衛のための戦争ができることをより明確化するために、日本の国会でした修正が、芦田修正と呼ばれるものです。9条の2項に「前項の目的を達するため」という字句を挿入することによって、原案であれば無条件に武力を保持しないと理解されがちなものを、一定の条件下に武力を持たないことにするためだった、と芦田さんがその意図をのちに明かされています。
そしてこの修正によっても、自衛のための戦争ができるようになったのかは、依然として明白ではなく、それが連合国の日本に対する方針などを最終決定する極東委員会でも問題となっていて、以下のような共通認識があったそうです。
①第9条全体の意味がはなはだあいまいになったこと、それゆえ修正の意図と意味をマッカーサーに問い合わせること
②自衛のためであれば、軍隊の保持が可能になると読みとることができるようになったこと
③そうすれば旧憲法体制のように、軍人が閣僚になる恐れがあること
④そのような危惧を取り除くために、内閣総理大臣を含む全閣僚がシビリアンでなければならないという規定を憲法に入れることが必要であること
修正の意図と意味をマッカーサーに問い合わせる必要を感じているという点で、依然として解釈の幅がある文章であることに変わりはなく、さりながら修正前よりも、戦争ができる可能性が高まったということで、文民条項を入れるようにという指示が、極東委員会からだされたわけです。
その指示をもとに貴族院で草案修正のための芝居がうたれたわけですが、特別委員会小委員会での委員のぼやきが面白いというか、情けないというか、忸怩たるものがあったので、そのままご紹介します。
高木八尺 最後の段階にいたり、突如としてこのような修正がなぜ入ったかは、一般の公然の秘密として問題にならなければならないと思う。すると貴族院が外部の要求によって修正したことになると、これが自由に審議された憲法であるという事実を傷つけることになる。そこでかかる不必要な規定挿入の要求を貴族院として拒んでもよろしいのではないか。
織田信恒 これを拒むことによって国家が大きな損害をきたすよりも、ここでこれを呑んだほうがよろしいのではないか。
田所美治 われわれの本意は、この憲法をはじめから全部お断りしたいところであるが、それはとてもできることではない。
高木 これが国際的にそう大いなる問題となるはずはない。またこれを拒むことによってそう国家に対して大きな損害をきたすことはないと思う。
宮澤俊義 高木君の意見は一応もっともだが、憲法全体が自発的にできているものでない。指令されている事実はやがて一般に知れることと思う。重大なことを失ったあとでここで頑張ったところで、そう得るところはなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺瞞にすぎないから、織田子爵に大体賛成。
高木 それならば議会で審議せぬほうがむしろよかった。審議する以上は自由な立場において審議する立場をとりたい。
小委員長(橋本實斐) 実のあるようなものが容れられないからこそ、かかる修正をおしつけられたのであるから、ご異存のあることは当然である。満場一致でこれを通すことは不可能であろう。
松本学 われわれはいずれも満足しないが、占領下において押しつけられたものであるから、不満足だが高木君のように根本的にぶつかっては馬を壁に乗り上げてしまう。
このホンネのでた会話というのは、その時だけでなく、日本の国会でたえず繰り返されてきたぼやきなのではないかと思ったのですね。私などもどちらかというと、この高木さんのように考えてしまうタイプで、それ以外の人の穏便にとか、ことなかれ主義にとても歯がゆいものを覚えるほうだったのです。そんなことでかつては議論でぶつかってしまうことも多かった。でも結局のところ、それ以外の人たちも内心では、高木さんの気持ちを共有しているのですね。だからホンネを抑えて、条文もあいまいにしたまま、すませてきたのかもしれないなとも思いました。正論を振りかざしたくても、結局は敗戦国であり、そのくびきを振り払うことができていないなかで、ゆがんだ憲法解釈を続けることで、アメリカ主導の戦争に大きく巻き込まれることなく、日本を守ってきたのかもしれないですね。
だから私も、西さんの事実を直視する学者としての姿勢はすばらしいと思うし、国の根幹を規定している憲法がどういうものかを知るためにも、西さんの本は是非とも読んでもらいたいと思うけれども、その上で、自衛権が今の憲法でもあるという事実について、どう判断するかというのは、また別の問題として存在していると思いました。
極東委員会のメンバーのなかでも、9条をどう読むかは議論の分かれるところだったわけで、憲法の成立経緯を知らないほとんどの日本人が、二度と戦争をしたくないという気持ちもあって、すべての戦争を放棄したと理解しているとしても何の不思議もないわけです。そう理解している人たちの間で9条がらみの議論が迷走するのも、当然といえば当然です。その辺、道は遠いけど、やはり事実を知って、自分の理解を深めて、それを他の人とも共有していくという地道な努力を積み重ねていくところからしか始まらないのでしょうね。