見出し画像

浦部法穂の『世界史の中の憲法』

憲法について読み進める中で、憲法というものができてきた経緯について関心を持つようになり、今回ご紹介する『世界史の中の憲法』に巡り合いました。浦部法穂さんの私論ではありますが、とても納得のいく説明で、憲法を考える視点のなかに歴史的重みが加わると、憲法のありがたみが増します。憲法に関心がある、すべての方にお薦めしたい一冊です。

憲法の要である人権の歴史的認知

 「いかなる権力も法によって制約される」という立憲主義の考え方がでてくる背景として、この本では13世紀に遡ります。「国王権力といえども、神と法の下にある」として、当時の封建領主や貴族の権利を守るために成文化されたのが、1215年のマグナ・カルタ。時代は進んで、商業を通して力をつけてきた都市の市民が、自分たちの権利を守るためにイギリス古来の法を援用して、近代立憲主義の基ができていきました。そういったイギリスでの流れを受けて、成文化した憲法がはじめてできたのがアメリカにおいてでした。
 そのような大まかな流れから始まって、憲法の要である人権という概念がどのようにできてきたかも論じられているのですが、そこに私が長年疑問に感じていたことの答えがありました。それは、所有権が強い社会がどうやってできてきたかという問いです。所有の自由、つまり、自分の財産をどう使おうが自由だという、これを確立することが、当時力をつけてきた「市民」にとっては最も重要な課題で、それが他の権利とあいまって最終的に人権という普遍的価値観を帯びた概念に発展していったと、浦部さんは説明されます。
 所有権の自由の確立を求めるたたかいのなかで、絶対王政という権力による不当な逮捕や処罰あるいは言論弾圧といったようなことが現実に行われてきたから、それに対抗して、「身体の自由」や「言論・出版の自由」というものが主張されるようになったとのこと。所有権という利益の主張だけでは、人権という普遍性のある概念にはならなかっただろうものが、それらを含み持つことによって解釈の幅が広がり、さらには当時大きな思想的潮流となっていた自然権思想、つまり「人は生まれながらにして固有の権利をもつ」とする考え方も加わって、普遍性を帯びた概念に発展していったと浦部さんは次のように書かれています。

市民革命当時の「市民」の現実的な要求も、それが、ただたんに「市民」にとって重要だというのではなくて、およそ人たるものにとっては絶対的に重要なんだという、いわば普遍性をもった理論的な基礎づけを与えられることによってはじめて、「人権」となりえたわけです。(中略)近代的人権が根本目的とした所有権の自由の確立は、「市民」の利益のために絶対に必要なことでした。その「ホンネ」を、「およそ人間が人間として生きていくために不可欠の権利だ」という「タテマエ」論で装飾することによってはじめて、所有権の自由は「人権」になりえたわけです。

『世界史の中の憲法』

 憲法は所有権を確立するたたかいのなかからできてきた。だからその憲法のもとにある社会は、当然のこととして所有権の強い社会になっていくわけですね。とはいえ、所有権だけでは、社会の要となるような人権とはなりえなかった。そうなるためには、身体の自由や言論・出版の自由、のちには生存権とか労働基本権といった、いわゆる社会権なども、人として重要な権利なんだということが認識されるようになっていく必要があった。
 そういう人権を、英語ではHuman Rightsということを浦部さんはあえて指摘されます。「人間として正しいこと」とも訳せる、この「タテマエ」論が、歴史のなかで、人権の具体的な中身を動かしてきたと言われ、所有権が強い社会ではありながら、その持てる者の横暴を抑えるためにも、その「タテマエ」を活かしていく知恵が私たち弱者に求められているのだと思います。

不正をただすこともできる憲法

 「国民主権」といった概念がでてくる歴史的経緯も説明されていて、ご関心がある方は本書にあたっていただきたいと思いますが、国民主権というものを最もよく体現する政治制度として民主主義があり、その民主主義の一つの問題である多数者による専制についてここでは取り上げます。浦部さんは次のように書かれています。

かつてのように、現実の国民意思とは無関係に一部の「国民代表」が決めたというのではなく、みんなが参加して実際の国民の意思に基づいて決められた、つまり、みんなで決めたことなんだから、当然これに従うべきだ、というかたちで権力支配の正当性はより強化される、ということです。(中略)これは常に多数者の意思であるわけで、少数者の意思というのは最終的には切り捨てられる、ということです。

『世界史の中の憲法』

 絶対王政による押し付けの時代よりも、民主的な社会では権力支配の正当化がされやすいことで、少数者の意思というのが切り捨てられてしまう可能性を浦部さんは危惧されています。国民の意思をよりよく反映させるためなどといって、住民投票や国民投票の議論がされたりもしますが、正当化を強化するだけに終わる可能性もあるようです。そんなことよりも決定過程に少数者の意思をいかに反映させ、いかに取り込んでいくかを考えていくほうが大事だと浦部さんは主張されます。その視点と仕組みを抜きにして、「国民主権」や「民主主義」というものを語るのは、非常に危険だという指摘に、そうだなと感じました。
 国の仕事を、複数の機関に分担させ、それら機関相互の抑制と均衡によって権力の腐敗や濫用を防ごうという考え方が権力分立で、その一例として違憲立法審査権が取り上げられています。国会でつくられる法律と憲法が矛盾するということはあることで、そういうときの矯正手段として、ある法律が憲法に違反しないかを裁判所が判断する制度です。この制度がアメリカでできた経緯も興味深いものでしたが、その点はわきに置くとして、この制度を使うときの注意喚起を取り上げます。
 それは、裁判所が多数派支配による決定の正当性にお墨付きを与えるという側面もあることです。憲法を忠実に適用するならばこうなるはずだ、ということで裁判所に判断を迫っていくという運動は必要であっても、現状追認にならないかを絶えず意識して運動を進めるべきだとしています。
 戦争と平和というテーマにおいて、戦争という手段の非合法化の歴史的流れについても解説されていますが、その点はわきにおくとして、ここで取り上げたい最後のポイントは「国民国家」という装置は戦争のための装置という側面をもつという次の点です。

民衆を戦争に動員するために、「国民」意識を人びとに植え付けていくなかでできあがったのが「国民国家」なのです。

『世界史の中の憲法』

 私たちが無用な戦争に巻き込まれないようにするために、たえず警戒していなければならない点だと思います。お国のために命をささげるといった美談に、簡単に騙されないような心構えを、私たち一人ひとりがもつようになる必要があるのでしょう。浦部さんも次のように書かれています。

「国」とか「国民」という単位で考えるのではなくて、一人ひとりの人間にとって何が重要なのかという観点で考えないと、結局は支配権力の都合に絡めとられてしまうことになると思うのです。

『世界史の中の憲法』

いいなと思ったら応援しよう!