見出し画像

「道徳」の気持ち悪さとめざすところ

「道徳」という響きがどこか気持ち悪いのは、「それは人から教わるものじゃないだろ」という思いが誰の心の中にもあるからなんじゃないかと感じています。

「道徳」というのは特殊な学問(「学問」と書くことにも違和感がありますが……)で、理科や算数みたいに、拠り所となる客観的な根拠がありません。
一言で「正義」って言ったって、どの方向から見るかで「正義」なんていくらでも変わってくるからです。横断歩道を赤信号で通り抜ける車があったらそれは法律違反で「悪」ですが、その車が救急搬送中の救急車であるならば、それは「悪」ではなく「正義」に類するものになるはずです。
それに、いままで生きてきたんですから、誰だって、その人なりの考え方をすでに持っています。みんなに自分なりの「正義」があるはずなのです。

ようするに、道徳で取り扱われる「道徳的価値」には、「正解がない」のです。

じゃあ、道徳の読み物教材ってなんなのか?

正解がないのですから、道徳の読み物教材に描かれている登場人物の行動は、「模範例ではない」ということです。言ってみれば、「ひとつ例を挙げてみるから、これをたたき台に、自分ならどう考えるか、みんな自分なりに想像してみようよ」というのが道徳の授業なんだとぼくは思っています。

そうすると、こんな反応が予想されます。
「みんな自分なりの答えでいいのなら、なんでわざわざ授業で道徳なんてやるんだ。みんな実体験から自分なりに考えればいいだろ」
この意見は、本質的な意味では否定しづらい。
でも、ぼくは学校教育における道徳は、必要だという立場でいます。

ではなぜ、学校で「道徳」なんてやるのか。

ぼくは、「いろんな意見を聞くため」なんだと思っています。


「その人らしさ」と道徳

「道徳性」というのは、ようするに人格です。その人の判断基準となるものです。
何か事が起こったとき、人は、過去の自分の体験や考えに照らして、「こうした方が自分らしい」とか「こっちの方が得だ」とか、あるいは「合理的にはこうした方がいいけど、それは何かモヤモヤするから別の方法をとろう」などと考えて自分なりの「判断」や「決断」をします(「行動」とはまたニュアンスが異なるのでここでは含みません)。
この判断基準はそれこそ千差万別です。
千差万別だからこそ、人格に個性が生じ、「その人らしさ」が生まれるのだと思います。

道徳でめざすもの

「道徳」でしようとしていることは、誰もが持っている「その人らしい価値基準」を矯正することではありません。「その人らしさ」という「個性」の部分には手をつけず、「でもこんな考え方もあるよね」「こう考える人もいるんじゃないか」と、「自分の人格の外側に、別の価値基準を持つための訓練」なのだとぼくは解釈しています。


なぜそんなものが必要なのでしょうか。

究極的には、「その人が、自分のままでも生きやすい社会をつくること」が目的となるんじゃないかとぼくは思います。
人は、どういう形であれ「社会」を構成しないと生きられません。そして、人の住処である「社会」には、千差万別の価値観をもった多様な人々がいっしょに暮らしています。
一人ひとりの人格を構成している「個性」は、「形を変えるとその人ではなくなる」という意味で、不可侵で不変であろうとする性質を持っています。だから、人は、他者から自分の人格を否定されることを嫌うし、意固地になったり頑固になったりするし、他者からの人格に対する言動に対し、「尊厳を傷つけられた」と感じるのだと思います。どんな国、どんな時代でも、「侮辱」が大罪であったのは、そういう理由に依るのではないでしょうか。

確固たる個性をもった人々が集まれば、価値観が異なるのですから、当然ぶつかります。ケンカになります。「あいつはおかしい」とか「あいつは間違ってる」とか、互いにそう感じて嫌な思いをすることになります。それだと、誰にとっても実に生きにくい社会になってしまう。嫌です。

だから、「自分はそうは思わないけど、そういう考え方をする人もいるんだ」と、寛容することが大切になるんじゃないかとぼくは考えます。
(もちろん、「自分の価値基準では悪いことじゃないから、迷惑行為や犯罪行為をしてもいい」と考え、実行する人を肯定しているわけではありません。それはふつうにムカつきます)

「寛容する」というのは、無条件に受け入れることとはちがいます。「あの人がそう言ったからそうする」では、自分の軸となる個性(人格)が死んでしまいます。
「寛容する」というのは、理解することだとぼくは思います。
納得はできなくても、「なるほど。この人はこういう考え方をするのだ。この人の『道徳』は、こんな形なのだ」と理解できれば、話し合うことができます。会話ができれば、互いに共通のゴールを定めることだってできます。学校で学ぶ「道徳」とは、個人を、社会から孤立させないための共通言語を学ぶことなのだとぼくは考えています。

つまり「道徳」や「道徳の読み物教材」とは、
自分以外の人を理解するためのツール」だということです。

言ってみれば、「特別の教科 道徳」の授業そのものが、この社会をうまく生き抜くためのすべを学ぶ、教材そのものなのではないかと考えています。




さて、なんでこんなことを長々と書いてきたのかというと、やってみたいことがあったからです。

道徳の読み物教材には、その教材に設定された「道徳的な価値」があります。ぼくのnoteに載せている教材を例に挙げれば、
おばあちゃんのキャラ弁」は、中学校の内容項目(14)「家族愛、家庭生活の充実」をテーマに作成したものです。

でも、ただ読み物教材を載せても、それは文字通り読み物でしかありません。単純な小説だったら、長さの制約も気にせず、もっとおもしろくする方法もあるのだと思います。
でも、ここでやりたいのは道徳の教材です。
だったら、どこまで行っても正解にはならないけれど、どうせなら道徳的な価値についても(ひとりよがりにならないように注意しながら)考えてみたいと思ったのです。

※もしこれらの記事を読んでくださっている方がいらしたなら、「道徳的価値」について、どんなふうに考えておられるのか、それをぜひお聞かせいただきたいと思っています。(ご意見をいただけるなら、コメント欄にご記入いただければ幸甚です)

で、
「ぼくはこう思うのだけど……」とつらつら書き綴るのはちょっとどうかと思うし、ぼくが思う「学校での道徳」の利点である多面性・多様性を殺すことにもなってしまうので、どうせなら、道徳の利点を活かす形で、将来的に「小説と道徳」を融合した物語をつくりたいと考えています。(実はすでに何度か試行錯誤していますが、あまり上手くいっていません)

その「小説と道徳」の物語には、以下のような登場人物を出すつもりでいます。

ウラ
元は渡来人。今は鬼。桃太郎へのうらみで鬼になった。決まった姿をもたないので、その時代の桃太郎の生まれ変わりと同じ姿をしている。二千年経ったいま、鬼でいるのがもう嫌で、どうしたら桃太郎を許せるのか、それを知るために人間の心を知りたがっている。長くこの世をさまよいすぎて、なにかもういろいろわからない。
鈴木小路(すずきこみち)
ダメ新米教師。節分の豆まきで噛んで「鬼はうち」って言ったらウラと上辺に取り憑かれた。ちょろい。
上辺(うわべ)
ウラの従者(式神)。姿がなく、音が出るものに取り憑くことでしゃべっている。いまのお気に入りは小路のスマホ。基本的に言葉のチョイスが雑。

一番上のキャラクターは「ウラ」と名付けました。岡山吉備津神社の「キビツ彦の温羅(うら)退治」の鬼伝説から取った名前です。
物語は、この「ウラ」が、「人間を知りたい」と願い、新米教師である「鈴木小路」がその願いを叶えようと悪戦苦闘することで進行していきます。

どうせなら、そういう物語の流れを使って、上の三者を登場させ、道徳の価値についてできるだけ多面的に考えてみたいと思うのです。



※上で「道徳でめざす」と表現していますが、あくまでこれはぼくの考えで、学校教育における学習指導要領上に記された道徳の目標とは表現が異なります。
【参照】小学校学習指導要領 第1章総則の2の(2)抜粋
道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?