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しあわせ



しあわせってたくさんある

側にいるしあわせ

私は生まれてからずっと実家で家族とともに暮らしてきました。
大学も実家から通える大学に進学しました。

だから、家族が側にいるしあわせに気が付きませんでした。

家族とのおはようから始まって家族とのおやすみで終わる1日がこんなに尊いものなんだって知らなかったんです。異国の地に1人で降り立って、はじめて気がついたんです。

周りは日本人だから心細くないとか、多少は英語が喋れるから一応は困らないとかそういうことじゃなくて。家族っていう変えの効かない存在が側にいない環境はジグソーパズルのピースが無くなったみたいに埋まらない隙間を作るんです。

−側にいられるってしあわせなんだよ。

帰れるしあわせ

変える場所があるなんて、帰りを待ってる人がいるなんて、当たり前でした。

学校が終わったらお家に帰る。お家では家族が待っている。それはお腹が空くのと同じくらい普通のことでした。

でも、そうじゃなかったんです。
お金を求めて歩く裸足の子供がたくさんいます。
夜だってご飯をくれるお店の前で寝ている子供がいつもいます。
帰る場所も帰る居場所もないのかもしれません。

−無条件に帰れるってしあわせなんだな。

誰にも決められないしあわせ

しあわせってある程度決まっていると思っていました。だってそうじゃなきゃ、不幸だなと思うことも幸せだなと思うことも無いんじゃないかなって思っていたから。

でも、そうじゃなかったんです。
いや、正確にいうならば、しあわせに共通の規定や範囲は無かったんです。

自分には想像の付かない生活を送る人がいます。
不便だなと感じることが当たり前の人がいます。
不衛生だなと感じることが綺麗だと思う人がいます。

その人たちはきっとそのなかでしあわせを感じてるんです。
私が普段感じるしあわせと同じだけきっと感じているんでしょう。もしかしたらもっとかもしれません。だって皆いつも笑ってるから。
−しあわせってその人にしか決められないんだね。

やっぱり私ってしあわせだな

結局しあわせは自分で決めるんだろうな。
私、ものすごくしあわせ者だな。


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