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吉田修一『国宝』

年に数冊出会える心が震えた本

週に5-10冊くらい、本を読む。
主に小説を読んでいて、学生時代は純文学ばかりを好んで読んでいたけれど、最近は大衆文学も、仕事に関連した学術書も読み始めた。

僕は大阪に住んでいるけれど、街の本屋って、減ったなとつくづく感じる。
小学生や中学生の頃は、家から徒歩2-3分のところに個人書店があって、そこでたくさんの本を買った記憶がある。
学校の授業で先生に紹介された、黒柳徹子の『トットちゃんとトットちゃんたち』を注文して取り寄せてもらったのも覚えている。
祖父母におねだりして街中の大型書店に連れて行ってもらった思い出もある。
僕にとって本は、書店は、とても身近に存在していた。

いつからだろう、本との物理的距離が遠くなったのは。
いつからだろう、街中に個人書店を見かけなくなったのは。
レジカウンターに座るおばちゃんが、売り物なのか個人の所有物なのかわからない本をずっと読んでいるような、本が好きな人が運営している書店に、最近出会ってなくて、ちょっとさびしい。

あと、毎週結構な数の本を読むから、なるべく作家に印税が入るように新品で購入することを心がけているけれど、古本屋で文庫を一気にまとめ買いしたくなるときもある。
古本屋って、こんなに少なかったっけ。
古本屋って、こんなに古本の種類が少なかったっけ。
そんなことを考えながらも、週末にまだ読んでいなかった吉田修一の本をまとめ買いした。

前起きが長くなったけど、吉田修一の『国宝』、控えめにいって最高だった。
大袈裟にいうと、日本を、歌舞伎を、歴史を、愛を、友情を、人間を知りたいならこの本を読めというくらいの本だった。

映画化が待ち遠しい

これ、どうやって映像化されるんだろう。
2025年に吉沢亮主演で映画化されるって帯に書いてあるけど、この小説、どうやって映像になるんだろう。
吉田修一の小説で映画化されたものはどれも秀逸だから、きっとまた素晴らしいものになるんだろうけど、すごく気になる。

言葉を読み進める中で、頭の中にひたすらその情景が映像化され続ける小説が、たまにある。
『国宝』はまさにそれだった。
言葉を目で追い続けていて、視覚から入った情報がそのまま脳内変換されて、血飛沫が舞ったり、スポットライトが当たったり、小屋で芝居が展開されていたり、物語の中の一瞬一瞬が、僕の頭の中で絵になり続けた。

ただ絵になり続けるならこんなに賞賛しない。
人の心情とか、駆け引きとか、愛とか、腐った部分とか、そういう、言葉にできないけど言語化したいものが詰まっていて、読み終えてから一週間くらい経とうとしているのに、まだこの本のことを思い出す。
年に100冊くらいの小説を読んで、ようやく出会えるかもしれないという小説。
たまんなかった。
僕の記憶の中に入り込んで出て行かない。
この小説に出会えてよかった。

もっとたくさんの本に出会いたい

書店にいくたびに思い知らされるのは、まだ読んだことのない本がこんなにたくさんあるんだってこと。
知らない作家がこんなにいて、ひとつひとつに込められた想いがあって、もしかしたらそれは、自分の人生を揺るがすかもしれない物語かもしれない。
背中を押してくれるかもしれないし、共感してくれるかもしれないし、救ってくれるかもしれないし、堕ちるところまで堕としてくれるかもしれない。
そんな本が溢れている。

もっと読みたいよ。
もっと知りたいよ。
もっと教えてほしいよ。

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