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山下澄人『ギッちょん』

これはもう純文学ですねっていう世界で紡がれる言葉たち。
少しでも目を離せばどうなるかわからない展開に、ただひたすら文字を追うことしかできなかった。

久しぶりに迷子になりそうな文章だった。
今なのか過去なのか空想世界なのか夢の中なのか、どこを語っているのかわからなくなる文体にソワソワしながら読むことができた。

現在過去未来

言語を学習するときに一番気をつけなければならないのが時制だ。
第一言語を使用するときには何も考えずに時制をもとに会話することができるけれど、第二言語以降では時制がぐちゃぐちゃになってしまうことが多い。

僕らは(僕の世代は)中学時代からずっと英語を学習してきている。
中学、高校、大学と、それぞれで英語の授業があった。
それなりの時間を費やして、日本人は英語を学ぶ機会を設けられている。

僕は英語が何よりも苦手だった。
文法が一切覚えられなかった。
時制という話ではなく、一人称から三人称までの意味がよくわからないまま高校を卒業した。

よく卒業できたよなって思う。
I, my, me, mine の意味を理解できたのは大学に入ってからだ。

英語だけは、唯一、何も理解できないまま大学へ入学させてもらえた。
それはそれでおかしいのかもしれないけれど、大学入学する方法とは多岐に渡っているから、英語を入試科目として使わなくともそれなりの大学に入学する方法なんていくらでもあった。

大学に入学し、1年次では英語の授業が必須科目として課せられていたから、まあ、控えめにいって絶望したよね。
何も理解できないものが必須科目として登場するなんて。
そして大学の授業だからきっと高校までの内容は理解している前提で進められるのだろうと考えると、絶望しかなかったのを覚えている。

でも、大学の英語の授業はアメリカ人講師によるコミュニケーションを主にしたものだった。
高校までの、ひたすら単語を覚えて文法を覚えさせられる授業ではなく、ネイティブスピーカーと会話を楽しむことが主な授業内容だった。

そこで僕はようやく、I, my, me, mine の意味を理解した。

スピーキングの授業で、私の好きなものを発表するときに、僕は「I favorite…」と発表していた。
それに対し、講師が「Nono "My favorite"」とジェスチャーを加えながら僕に話しかけてくれた瞬間に、なんでかわからないけど、点と点が繋がったような感覚になって、英語が理解できるようになった。

たったそれだけ、ネイティブスピーカーからの、たったひと言で、僕は英語が理解できるようになった。
正確には英語への苦手意識が無くなった。

そこから、僕は英語でニュースを観たりドラマを観たりするようになり、知らぬ間に耳だけは育ち、どれだけ早口で捲し立てられるように喋られても言っている内容が理解できるようになった。
まあ、喋る機会は皆無だから理解できたとしても言い返せないんだけど。

今まで理解できそうでできなかったもの、点と点で独立していて決して交わることのなかったものが、一瞬にして繋がって線になっていくことって、よくある。

英語だけじゃなくて、人生においても、よく起こる。

大切なのは、点として存在するときにその点を濃くしていくことだと思う。
意味なんてわからないかもしれないけど、不要なものだと感じてしまうかもしれないけど、その瞬間を自分の中で無駄にしなければ、いつか繋がっていく。

無駄だなんて思わないでほしい。
どんな些細なことに対しても全力で向き合ってみてほしい。

僕は主にデザインすることを生業にしているけど、今に至るまでに通ってきた道はどれも必要不可欠だった。
悔しいことも、絶望したことも、なんでこんなことをしなくちゃいけないんだって思ったことも、振り返ると、ぜんぶ今に繋がっている。

その中でも読書は特に今に繋がる太い柱になっている。

読書なんてしなくていいと感じる人は大勢いる。
本よりもネットで情報収集した方が効率的だと考える人も大勢いる。

けれど、もし僕に読書という習慣がなかったら、今の仕事は絶対できないし、これから先の未来を思い描くこともできなかった。

思考というのは育っているかどうか、表面的には見えてこない。
ここぞという大切なときに、ほんの一瞬だけ垣間見えるのが思考だ。

けれどその一瞬で、人は判断される。
その一瞬のために、何百冊、何千冊もの本を読む。

本を読んでほしい。
自分の言葉を得てほしい。

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