LOVEファッション―私を着がえるとき 京都国立近代美術館
ファッションショーみたいな感じかなとあまり期待せず行ったら興奮させられまくった。
ファッション領域だけじゃない、デザインとして、アートとして楽しめる展示会だった。
歴史に残ってるような服が生で拝めるなんて、そんな、たまんなさすぎるだろ。
ファッションというアート
服って、着るためにあるんだよね。
僕は服にそこまで頓着がないから、ユニクロとか、無印良品とか、いわゆるファストファッションで済ませてしまうことが多い。
もちろん場をわきまえて年相応な格好をしなければならない時にはそうするけれど、基本的には大量生産された服を身に纏っている。
服は、自分を表現するためにも存在する。
見てくれ、という表現が適切かどうかわからないけれど、見た目の印象に、服は大切な役割を果たしている。
色だったり、形だったり、シルエットだったり、あらゆる要素で、自分を表現するために、服を纏う。
奇抜なファッション、という言葉がある。
奇抜って、なんだ?
個性的になろうとして、原色とかラメとかトゲトゲしたものとかをたくさん取り入れた結果、奇抜という名の無個性になるのは、あるあるな話。
毎年たくさんの若者が、個性的な、表現豊かな、新しい服をデザインしようと頑張るけれど、果たしてその中に、ファッション史を読み込んだことのある子は、何人いるだろう。
そうやねん、何人っていうレベルの、数えられるくらいしかいないはず。
夢を持って生きている。
スターになりたいって、憧れになりたいって、ポスターを飾るのは自分だって、そういう気持ちで走り始める。
それなのに、いつから、自分には無理だと感じ始めるのだろう。
年齢を言い訳に使う人がいる。
「今からやったって資格が取れる頃には40歳になっちゃう」と言う知人がいた。
だからやらないと。
やってもやらなくても40歳にはなるのに。
どうせ40歳になるならやればいいのに。
そういう人とは、なるべく距離を置くようにしている。
やってもやらなくても一緒なら、やったらいいやん。
どうせ後悔するなら、やって後悔したらいいやん。
ぐちぐちうるさいな、言い訳するなら、傷を舐め合いたいなら、僕を巻き込まないでほしい、という考え。
やる前から諦めるなよ。
やってからも諦めるなよ。
しぶとく生きようぜ。