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吉田修一『最後の息子』

何が一番驚いたかって、吉田修一が本作で文學界新人賞を受賞したときの審査委員に山田詠美がいたってこと。
山田詠美は新作が発表されたら必ず読むと決めている作家のひとりだけど、山田詠美といえば、ピーコとの対談を思い出す。
もはや歴史に名を刻んでる存在。

一人称と三人称

吉田修一が一人称で小説を書いていたことを初めて知った。
続く二作目からは三人称になっているから、デビュー作だけなのかな。

一人称で綴られる物語の中にも、三人称の視点は存在する。
三人称を語っているのが主人公なのか、それとも神の視点と呼ばれるものなのかは、作家のセンスに依存する。
どっちが良くて悪くてという話じゃない。
一流の作家の書く言葉は、どれも良質。

作家のデビュー作というのは、結構な逸品が多い。
まだ小説家としてデビューしていない段階から、命を振り絞るようにして紡ぎ出された言葉たちには、ほんとうに、命が宿っていると感じさせてくれる。
全身全霊をかけた勝負として賞に応募したのが伝わってくる作品は、読みながら、生きてるってことを実感できる。

細かな設定を語らずに、細かい背景まで想像させるのは、とても難しい。
言葉で言わなきゃ伝わらないでしょ、と、以心伝心のためにある言葉たちを、あえて使わず、言葉で表現する以上に意思を伝えられるのって、やっぱりすごい。

学生時代、山田ズーニーの『あなたの話はなぜ「通じない」のか』を読んだ。
昔も今も、相手に自分の真意を伝えるのは苦手だ。

言葉というのは武器にもなる。
武器になるということは、凶器にもなり得るということ。
毎日たくさんの言葉を浴びているけれど、言葉って、実は怖い。

僕は、サラリーマン時代、会社で「ゴミ」って呼ばれていたことがある。
僕の呼び名が「ゴミ」だった。
ゴミと呼ばれ始めた頃は、反発した。
ゴミと呼ばれ続けると、先輩からゴミと呼ばれて素直に反応するようになっていった。
ゴミという名称が定着すると、自分はゴミなのだと認識するようになった。

たったそれだけ。
ほんとうに、たったそれだけで、人の心というのは、簡単に壊れていく。
ゴミなんだから、死のうって、いとも容易く考えるようになる。
ああ、いとをかし。

言葉が持っている力は怖い。
言霊っていうのかな、あるんだと思う。
スピリチュアルなことを言いたいわけじゃなくて、人を殺すのに、言葉以上に適切な武器はない。

自分の言葉に責任を持つのは、とても難しい。
考えて発言する言葉と、反射的に発言する言葉があって、反射的に出てしまったものを、あとから振り返って反省することも多い。

結構みんな、発言には気を付けること、あるんじゃないかな。
意見を求められたりするときに、嫌なこと言っちゃダメだって、考えちゃうよね、わかる。

芸術鑑賞を、ある大学の教授と一緒にしていたときに、「なんだこの絵」って、教授がぽろっと呟いた。
僕は慌てて、「そんなこと言わない方がいいですよ」って注意した。
そしたら教授が「なんでそんなに気を遣う必要があるんだ、今ここにステークホルダーなんてないだろ」と言った。
たしかに、教授と僕しかいないのに、ここにそんなもの、ないなって思った。

高名な人が評価している作品は、素晴らしいものなのだと思い込む。
素晴らしいものなのだから、賞賛しなければいけない気がしてくる。
すごい、綺麗、さすが、あっぱれ。
でも、それって自分の気持ちと向き合っているのだろうか。

お前は、どう感じたんだ。
他の誰かが言っている言葉じゃなく、ググったら出てくるような言葉でもなく、お前は、なんて言いたいんだ。

だから僕は、noteでくらい、自分の言いたいことを、自由に書くことにした。

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