見出し画像

弥太郎、新年気分が晴れる

一月五日 晴れ。朝、古文典型を読む。中沢寅太郎が来た。下許しももと君は、久松氏へ先日来お願いしていた外国貿易の件について、幸いにも当今国元から担当の役人たちが参ったので、今後はその役人たちにご応答くだされたいと返答しようと(久松氏宅に)まかり出たため、留守だった。

 新年気分も晴れたのか、岩崎弥太郎は同僚たちの動向を詳しく記すようになります。日記の文体も変わります。そうろう文が主体になり、漢文日記の切れ味はしばらく見られません。おまけに、関係が不明瞭な人物が幾人も登場して読み解くのに難渋します。

 それでも読み進むと、弥太郎ら出張の土佐藩士たちが長崎でどのような交際を持ったのかが判って来ます。上記の「久松氏」は、長崎の町年寄を務める有力な町人です。日記の記述から、土佐藩が外国と貿易するために久松氏の協力を得る約束があったことが察せられます。

 この日、弥太郎は下許、中沢の二人から聞いたことを日記に記しています。弥太郎は二人と違って貿易を直接の任務とせず、長崎で外国事情を調査する役割でした。二人の話の中に、今井純正なる土佐藩士が登場します。今井は西洋医学を学ぶため、弥太郎や下許より早く長崎に来ていました。

 今井純正は、後に海援隊士長岡謙吉として知られることになる人物です(自ら長岡と改名。1834年生~1872年没)。坂本龍馬に信頼され、海援隊の公的文書の執筆を行った祐筆でもありました。弥太郎の日記は、実は長岡の動静についての貴重な史料です。ただ、長岡が隊中ではやや地味な人物であるのと、弥太郎の不人気から、あまり注目されていません。

 ところが、留学生のような立場の今井が、土佐藩の貿易に関して勝手に話を進めている、と下許、中沢の耳に入れる者があったのです。このため、弥太郎らは今井に対し強い疑念を持ちます。今井をめぐっては翌日以降も記され、やがて今井はこの件で苦しい立場に追い込まれます。

 しかし、今井の一件は、弥太郎の日記の記述では不明瞭な上に煩雑です。できるだけ深入りせず、必要があれば記すことにします。この日の最後に、弥太郎は「夜、蘇軾そしょくの文章を読んだ(夜読蘇文)」と記し、日課の通りの勉強をしていたことが分かります。

 ここで、岩崎弥太郎が日記において人物をどう表記したかさらっておきます。呼び方、敬称に注意すると、当該人物との関係、特に地位の上下が判ります。これは、弥太郎の日記の特性ではなく、日本語の呼称システムに弥太郎が従っているからです(私訳の呼称は、おおむね原文のままです)。

 下許武兵衛は必ず「君」づけで表記されます。「君」は明治以前には敬称であり、下許が弥太郎にとって目上であったことを示します。対して目下である商人の六兵衛は、名前のみで敬称なしです(上士である下許は、長崎行きの旅日記で「弥太郎」と呼び捨てにしています)。

 弥太郎が同格とみなす者には、また恐らくは関係の遠い者に対して、たとえば中沢寅太郎や今井純正のように、名字またはフルネームで表記し敬称をつけません。久松家は大事な「取引先」なので「氏」つき。が、久松家の一員である善兵衛個人には敬称なし。身分としては町人だからでしょうか? 

 弥太郎は、実は神経細やかな面があり、私的な書き物においてもこうした正確さを大事にしているように思われます(江戸時代でも、日記中では目上の人にぞんざいな呼称を使う人があります)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?