見出し画像

タイムトラベル×AED 大正時代編 漱石と彼方の行人

はじめに

この物語はフィクションであり、明治時代から大正時代の文豪・夏目漱石と、現代の子どもたちの交流を通じて、命の尊さと文学が持つ普遍的な力を描いた物語です。

漱石はその作品を通じて、人間の葛藤や心の奥底にある真実を描き出しました。彼の文学が持つ「生きる意味を問い直す力」は、現代に生きる私たちにも深く響きます。本作品では、漱石の時代と現代が交錯する中で、命と心を救う力とは何かを探る物語が紡がれます。

現代では、公共の場に設置されているAED(自動体外式除細動器)が、多くの命を救う力を持つ存在として広く認識されています。しかし、今回AEDそのものは使用されません。それでも、命を救う行動が、知識や勇気、そして「人と人とのつながり」から生まれることを示しています。この物語が、「命を救う力」について考えるきっかけとなれば幸いです。

また、物語の中に登場する「歴史改変者」との対決は、単なるSF的な要素にとどまりません。漱石が描いた人間関係の普遍性や、私たち一人ひとりが持つ心の中の可能性を象徴的に表現したものです。現代の子どもたちが漱石と向き合い、時に衝突しながらも互いに影響を与え合う姿は、時代や文化の違いを超えた普遍的なテーマを浮き彫りにします。

最後に、この物語はフィクションであり、タイムトラベルやその他の要素は創作です。しかし、夏目漱石の文学や思想に基づく描写についてはできる限り史実に即しており、読者に楽しみながら歴史や文学への興味を深めてもらえるよう心がけました。

漱石の言葉と、現代を生きる子どもたちの心が交錯するこの物語を通じて、時代を超えた命と心の絆を感じ取っていただければ幸いです。


登場人物一覧


主人公たち

  • ユウキ
    小学5年生の男の子
    主に戦国時代や江戸時代、幕末の歴史に詳しく、日々 本を読んだり、テレビの歴史番組を観たりしている。最近は近現代史、特に文豪にも興味を持っている。 ユウキが文豪に興味を持ち始めたきっかけは父親が家にある古い書籍の中から漱石の『坊ちゃん』や、太宰治の『人間失格』を取り出し、ユウキに読んでみるよう勧めたことがきっかけ。

  • アヤカ
    ユウキの幼なじみでしっかり者の小学5年生の女の子。小学5年生
    しっかり者で頼りがいがあり、冷静かつ行動力のある女の子。
    医療や救命に関する知識が豊富で、AEDの使用にも詳しい。普段はおとなしい雰囲気だが、怒らせると少林寺拳法の腕前を発揮する。


過去の人物

  • 夏目漱石
    明治時代後期から大正時代の文豪、ユウキたちがタイムトラベルして出会う人物。知名度の高い作家として知られ、多忙な毎日を送っているが、実際には病弱で体調が不安定。彼の作風や文学的な視点が物語に深みを加える。また猫を飼っており、その猫が物語の中で重要な役割を果たす。

  • 猫(漱石の猫)
    漱石の飼い猫。物語においては、ユウキたちに対して知識や重要なヒントを与える役割を果たす。猫の視点から物語が語られる場面もあり、謎めいた存在。

謎の存在

  • タイムドクター
    未来の科学者で、ユウキたちを歴史改変者の陰謀から守るために助力する。南北戦争期へのタイムトラベルを可能にする装置を持ち、子供たちに重要な任務を託す。


  • 歴史改変者
    夏目漱石の命を狙う謎の存在。目的は明確にされていないが、歴史を歪め、現代の流れを破壊しようと暗躍する。
    一見すると普通の人間だが、どこかで見たことがあるような顔立ちをしており、歴史の教科書や資料で見覚えがあるように感じさせる。服装もどこか歴史上の人物を連想させるものだが、詳細はぼやけている。




第一章 「門は開かれた」

放課後の研究所は、いつもなら穏やかな夕暮れに包まれている時間だった。しかし今日は違った。

「ユウキくん、アヤカさん、緊急事態です」

突然鳴り響いた緊急連絡用の通信音とともに、タイムドクターの声が響き渡る。土曜日の午後、図書館で歴史の本を読んでいたユウキと、少林寺拳法の練習を終えたばかりのアヤカは、急いで研究所に駆けつけていた。

研究所の大型モニターには、威厳のある表情の中にどこか優しさの漂う、髭を蓄えた男性の写真が映し出されている。モノクロ写真だが、その眼差しには凄みがあった。

「あっ!この人は...」

ユウキの目が輝きだす。歴史の本で何度も見た、あの写真だ。

「夏目漱石先生ですよね!『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』の作者です!」

ユウキは興奮を抑えきれない様子で、得意の歴史知識を披露し始めた。

「1867年に江戸で生まれて、イギリスに留学して、東京帝国大学で教えて...」

「よく分かったね」

タイムドクターは静かに頷いた。しかし、その表情には深い憂いが浮かんでいる。

「1916年12月、夏目漱石は胃潰瘍の悪化により危篤状態に陥り、そして...」

言葉を濁すタイムドクターの横で、まだ道着姿のアヤカが声を落として続きを告げた。

「亡くなってしまうんですよね」

研究所の空気が重くなる。しかしタイムドクターは、さらに深刻な表情で続けた。

「ええ。しかし、今回は違います」眉をひそめ、モニターに映る別の映像を指し示す。「歴史変革者が、漱石の死期を早めようとしているのです」

「どういうことですか?」

ユウキが食い入るように聞いた。モニターには、漱石山房の周りを怪しげに徘徊する黒装束の影が映っている。

「本来の歴史では、漱石は胃潰瘍で危篤状態になりながらも、一時は持ち直すはずでした」タイムドクターは古びた手帳を取り出しながら説明を続けた。「その間に、彼は後世に残る重要な原稿を書き上げる...。しかし歴史変革者は、その機会を奪おうとしています」

アヤカは自分の救命キットを確認しながら、現実的な懸念を口にした。

「でも、大正時代か明治時代ですよ?現代の医療機器を使って大丈夫なんでしょうか?」

彼女の手には、いつも持ち歩いているAEDが握られている。不安そうな表情を浮かべながらも、その目は覚悟を決めたように見えた。

「その判断は、君たち次第だ」

タイムドクターは二人をじっと見つめた。その眼差しには、いつもの温厚な笑みは無い。

「ただし、覚えておいてほしい。歴史を変えることと、歴史を守ることは、まったく違うものだということをね」

その言葉が研究所に響く中、タイムマシンが起動音を鳴らし始めた。時を越える扉が、静かに開かれようとしていた。

ユウキは胸に抱えていた歴史の本をしっかりと握りしめ、アヤカは救命キットの肩紐を強く引き締める。二人の瞳には、決意の光が宿っていた。

大正時代、文豪・夏目漱石を救うための時空を越えた戦いが、今始まろうとしていた。



第二章 「吾輩と猫の案内」


東京・早稲田南町の漱石山房。時空の歪みが静かに収まると、そこには雪のちらつく時代がかった街並みが広がっていた。


「寒っ!」アヤカが肩をすくめながら身を震わせる。「大正時代の冬って、こんなに寒いんだね」「そうだよ。この時代は暖房なんて無いし、火鉢くらいしか暖を取る方法がなかったんだ」ユウキは懐から取り出したメモ帳を開き、歴史の本で覚えた知識を口にした。


二人が立っていたのは、閑静な住宅街の一角だった。通りには人力車が行き交い、着物姿の人々が寒空の下、足早に歩いている。遠くから響く都電の音が、澄んだ空気の中に柔らかく溶け込んでいた。


そして目の前に、その建物はあった。


「すごい……」ユウキは思わず息を呑む。


和洋折衷の二階建て住宅。白壁に洋風の窓、そして日本家屋らしい瓦屋根が特徴的なその建物は、漱石の個性そのものを映し出しているかのようだった。庭には、苔むした庭石が無造作に置かれ、その周囲を剪定の行き届いた植木が囲んでいる。


「これが漱石山房……先生が『吾輩は猫である』を書いた家だよね?」アヤカが声を潜めながら尋ねると、ユウキは頷いた。


「うん、この庭石、漱石がすごく大事にしてたんだ。猫の名前も石にちなんだ説があるんだよ」「へえ、そうなんだ……」


アヤカの視線は、明かりが漏れる書斎の窓に向けられた。障子越しに揺れる影が、ペンを走らせる音を聞かせてくれるようだった。


その時、どこからか低い声が響いた。

「おや、珍しいお客さんだねぇ」

二人が驚いて振り向くと、一匹の猫が漱石山房の門柱の上に座っていた。黒と白のまだら模様の猫で、その目は鋭い知性を帯びていた。

「君たちは漱石先生に会いに来たのかい?それとも、何か企んでいるのかね?」

「猫がしゃべった!?」

ユウキは腰を抜かしそうになりながらも、歴史的興奮が勝り、再び前のめりになる。

「まさか...!これは『吾輩は猫である』の猫!?」

「その通り。吾輩は猫である。名前は、まだないけどね」

猫は気取った様子で前足を舐めながら続けた。「ただし、歴史を守るために動いている君たちと、変革者どもを見分ける目くらいは持っているよ」

アヤカは半信半疑ながらも、猫に向かって尋ねた。

「それなら、漱石先生の命を狙っている変革者がどこにいるのか教えてもらえますか?」

猫はしばらく考え込むような仕草を見せた後、尾を立てて歩き出した。「ついておいで。案内してやるから」

二人は猫に導かれ、漱石山房の裏庭へと足を踏み入れた。そこには、雪の上に怪しげな足跡が続いていた。足跡を辿りながら、猫が静かに呟いた。

「漱石先生は、この雪の夜、重要な夢を見ることになっている。その夢が、彼の新しい物語の鍵となるんだ」

「夢ですか?」

ユウキが興味津々で尋ねると、猫は振り返り、まるで試すような目で二人を見た。

「そうだ。夢の中で彼は、人間の弱さと強さ、そして生きる意味を知る。でも、その夢を見る前に命を奪われたら、何もかもが失われる」

猫の言葉に緊張感が高まり、二人はさらに足早に進んだ。

その時、不自然な影が庭の奥で動くのが見えた。黒い服に身を包んだ人影が塀の向こうに一瞬で消えた。

「あれは……!」アヤカとユウキは顔を見合わせた。

「歴史変革者かも!」ユウキが低い声で言う。

漱石山房に隠されたこの時代の危機。それは漱石が死を目前に執筆していた最後の物語に絡んでいた。漱石の死を早め、彼の影響力を抹消する――それが敵の目的だとタイムドクターは警告していた。

「まずは漱石先生の安否を確認しよう」アヤカが決然とした声で言う。

しかし、その時ふと風が吹き抜け、二人の足元に一枚の紙が舞い落ちた。それは『吾輩は猫である』の冒頭、あの有名な一文だった。

吾輩は猫である。名前はまだない。

アヤカが拾い上げたその紙片には、墨で書かれたような文字が記されていた。

「なんでこんなものが……」ユウキが不審そうに呟く。

「これは誰かがここに仕掛けた合図かもしれない。でも放ってはおけないね」アヤカが真剣な表情で言う。

ユウキは頷き、漱石山房の書斎へと向かう小道を慎重に進み始めた。彼らは知っていた。もし漱石がこの日、何らかの形で命を落とせば、後世に多大な影響を与えた作品がすべて失われる可能性があることを。

足元に雪が積もる音が響き、白い粉雪が彼らの足跡を静かに消していく。その向こうから微かに聞こえるペンの音が、漱石山房の静寂を埋めていた。

「漱石先生を守るため、絶対に歴史を守らないと……!」

次第に強まる雪の中、二人の使命は新たな局面を迎えようとしていた――。

しかしその時、猫が不意に足を止め、静かに二人を振り返った。その鋭い瞳に、どこか寂しげな光が宿っている。

「ここから先は、君たちだけで進むんだ」

「えっ!? どうして!?」

ユウキが慌てて問いかけるが、猫は何も答えない。ただ、門柱の上で初めて見せた、どこか達観したような微笑を浮かべると、雪の中に消えるように姿を溶かした。

「猫……!いなくなっちゃった」

アヤカがその場で立ち尽くす。ユウキも名残惜しそうに雪の降り積もる庭を見回したが、猫の気配はどこにもなかった。

「でも、きっとあの猫は僕たちを信じて託してくれたんだよね……歴史を守るために」

「そうだね……私たちがやるしかない」

二人は雪の向こうに見える漱石山房の灯りを目指して、再び足を進めた。その後ろには、猫が座っていた門柱だけが静かに残されていた――。



第三章: 「道草の迷宮」


「どうやって中に入ろう...」
雪がしんしんと降り積もる中、ユウキは塀の外で考え込んでいた。漱石山房の構造や間取りは、歴史書や資料で何度も確認してきたが、「潜入」の方法まではさすがに書かれていない。

「このまま正面から頼み込むのは、怪しまれそうだよね」とアヤカがつぶやいた。
その時だった。
玄関の格子戸がかすかに音を立てて開き、一人の女性が門の外に姿を現した。着物を身にまとった若い女性――眉間に深い皺を刻み、どこか憂いに満ちた表情をしている。

「あっ、あの方だ!」とユウキが小声で叫ぶ。「漱石先生の長女、筆子さんだよ!」
筆子――夏目漱石の子どもの中でも特に気丈で献身的な彼女は、漱石の看病を献身的に支え続けたとされている人物だ。ユウキは、歴史書に書かれていたエピソードを次々と頭に浮かべた。

「今がチャンスだね!」
アヤカはそう言うと一歩前に出た。タイムドクターから借りた大正時代の袴姿が、雪の中でしっかりと映える。「あの、お手伝いの者なのですが……お父様のご体調がすぐれないと伺いまして」

筆子は不審げに二人を見つめた。見知らぬ子どもが突然声をかけてきたのだ、不審に思うのも当然だった。しかし、アヤカの真摯な表情はどこか彼女の心を打ったのか、警戒心は次第に薄れていくようだった。

「そうですね……父はこのところ具合が悪く、寝込んでおります。胃の病が悪化して……」
彼女の声には深い憂いが滲み出ていた。胃潰瘍と神経衰弱に苦しむ漱石を案じる彼女の気持ちは、明治時代から大正時代という激動の時代を生き抜いてきた家族特有の苦労を思わせるものだった。

「私、看護の心得がございます。ぜひお役に立たせてください!」
アヤカは堂々と申し出た。もちろん、看護の心得などといってもそれは現代の学校で学んだ応急手当の知識に過ぎない。それでもその瞳はまっすぐで、少しの嘘もない真剣さが伝わった。

「僕も、アヤカの助手です!」
横でユウキが控えめに名乗ると、筆子は小さくため息をついた。困惑と戸惑い、それでも誰かに頼りたいという希望が入り交じる表情を浮かべた彼女は、ついにうなずいた。

「わかりました。どうぞ中へ」

格子戸を開け放ち、彼女は二人を招き入れた。

漱石山房の玄関を入った瞬間、二人は大正の空気に圧倒された。畳の香りが鼻をくすぐり、壁には漱石が選んだ掛け軸が整然と並ぶ。廊下の奥からは、漱石が大切にしていたという猫――もしかすると、『吾輩は猫である』のモデルになったかもしれない――が静かに歩き回る気配さえ感じられる。

ユウキは漱石の作品に描かれた家の描写を思い出し、目を輝かせていた。『門』の中で描かれた、家の静けさと閉ざされた空間を想起させるような、時間が凍りついたかのような雰囲気が漂っている。

「父は二階の書斎におります」
筆子がそう言って案内しようとした矢先、二階から苦しそうな声が響いた。

「うっ……!」

筆子は息をのんだ。「お父様!」と叫び、廊下を駆け上がろうとする。

「待ってください!」
アヤカが彼女を引き止めた。「何かお手伝いできることがあるはずです。私たちにやらせてください!」

一瞬躊躇した筆子だったが、アヤカの目の中に宿る使命感に気圧されたのか、うなずいて一歩下がった。「お願いします……」

二階の書斎に駆け込むと、そこには漱石が横たわっていた。布団に包まれたその姿は、作家として不朽の名作を生み出した偉大さを感じさせる一方で、どこか儚げで、もろい印象を与えるものだった。

『こころ』で描かれた人間の孤独、『坊っちゃん』に散りばめられたユーモア、そして『草枕』の詩的な情景――それら全てを抱えながら、漱石は今、生と死の境を漂っているように見えた。

ユウキはそんな漱石の姿に息をのんだ。「これが、あの夏目漱石……」

アヤカは迷いなく動き始めた。持参した救命キットから医療器具を取り出し、まずは漱石の脈を測る。手が冷たい。彼女は自分の小さな手を漱石の手に重ね、温めるように握った。

「大丈夫です……先生、しっかりしてください」

その声が、ふと微かに開いた漱石の瞼を揺らした。彼の目がほんの一瞬、アヤカの方を向く。まるで、彼女を『夢十夜』の一場面の中のように捉えているかのような眼差しだった。

「ああ……これは、第一夜の夢かもしれないな……」

弱々しく、しかしどこか深い響きを伴った声で漱石はつぶやいた。アヤカとユウキは顔を見合わせた。漱石の言葉が、彼らの心に何か特別なものを投げかけたのだった。

漱石の命を救う鍵は、彼の文学の中に隠されている。そう気づくのに、二人はそう長い時間を必要としなかった。


第四章: 「夢十夜の決闘」


漱石が机に伏して動かなくなった瞬間、散らばる原稿の文字がアヤカの目に飛び込んできた。それは未完成の小説の一節だった。

「ああ、吾輩はもうダメかもしれない。しかし、それでも諦めずに前へ進む何かがあると信じている。人間とは、そういうものだと――」

「『吾輩は猫である』の続編!?」アヤカが叫んだ。机に散らばる言葉が、どれも馴染み深いものだった。「この文章...漱石先生が、最後に書こうとしていた何かの続きだ!」

ユウキは急いで漱石の薬を準備しながら、その原稿を見た。「この書きかけの言葉、ただの小説じゃない。漱石先生が今生きるためのヒントかもしれない!」

その時、漱石の胸元から微かな声が聞こえた。「...筆子...筆子、あの本を...」

「どの本ですか!?」筆子が泣きそうな声で答える。

漱石の指先が震えながら、壁に設置された棚を指し示す。「『夢十夜』...第六夜...」

アヤカは一瞬でその言葉を理解した。「『夢十夜』、そうか!」彼女は本棚に駆け寄り、目当ての本を探し始めた。「『第六夜』の話、あの不思議な夢の中で老人が命をつなぐ物語だ!」

「そうだ!」ユウキが目を見開いた。「第六夜では、老人が一本の柳を植えて命を賭けて水を引いたんだ。それは、希望と生への執着を象徴している...。先生もきっと、諦めない気持ちを持とうとしていたんだ!」

アヤカが『夢十夜』を引っ張り出し、そのページを開く。彼女は震える声で朗読を始めた。

「私はこんな夢を見た。腕組みをして枯野を眺めていると、向うの方からスルスルと一本の柳が生えて来た。」

漱石の意識は微かに戻りかけているようだった。筆子が必死に父の顔を覗き込む。「お父様!」

アヤカは続ける。「この柳が...この柳が生きる希望そのものなんです。先生、この柳を一緒に育てましょう!」

漱石の唇がかすかに動き、何かを呟いた。「柳が...枯れぬように...守ってくれ...」

その瞬間、書斎の窓から冷たい風が吹き込み、彼らの背後に気配が立ち上がった。

「おしゃべりが多すぎるな。」

低い声とともに、歴史変革者が再び姿を現した。黒い装束が窓から差し込む月光を受けて不気味に光る。手には、再び漱石の薬瓶が握られていた。

「何度でも言おう。その薬はもう手遅れだ。漱石が死ねば、その言葉も記憶も消える。つまり、この国の未来そのものが変わる。」

「そんなことさせない!」ユウキは拳を握りしめたが、歴史変革者の鋭い眼差しに一瞬怯んだ。

アヤカは冷静だった。彼女は『夢十夜』を強く握りしめたまま、じっと歴史変革者を見据えた。「漱石先生が残した言葉は、誰にも消せない。柳は枯れない。人々がその意味を知っている限り、あなたが何をしても無駄よ。」

歴史変革者の顔が歪んだ。「言葉だと? 言葉が歴史を守るだと?笑わせるな。それならば証明してみせるがいい。」

突然、歴史変革者が懐から煙幕を取り出し、書斎全体が白い霧に包まれた。


煙が消えたとき、歴史変革者は机に散らばる原稿を手にしていた。

「この原稿を破れば、お前たちの希望は潰える。」

「やめろ!」ユウキが叫びながら飛びかかったが、相手の素早い動きに阻まれる。しかし、その一瞬の隙をついて、アヤカが再び少林寺拳法の技を繰り出した。

「返して!」アヤカの回し蹴りが歴史変革者の腕に命中し、原稿が宙に舞った。

その瞬間、漱石の弱々しい声が響いた。「...その原稿は...書き直す...ことができる...だが、言葉そのものは...誰も消せない...」

歴史変革者は表情を歪めたが、その言葉に動揺している様子が明らかだった。

「漱石先生の言葉が未来をつくる。それを消したいのは、あなたが本当は恐れているからだ。」アヤカの声は力強く響いた。

歴史変革者はもう一度挑発するように笑ったが、漱石山房の明かりが再び灯り始めた瞬間、彼は一歩後退し、煙の中に消え去った。


漱石の薬を正しく投与し、彼の呼吸は徐々に安定を取り戻した。筆子は涙を流しながら父の手を握りしめる。

「柳が...枯れなかった...」漱石は弱々しいながらも、微笑みを浮かべて呟いた。その言葉はアヤカとユウキの胸に深く刻まれた。

書斎の中、未完成の原稿は優しく夜風に揺れている。その言葉たちは、歴史の中で燃える希望の灯火だった。

漱石山房の夜は、未来への希望とともに静かに更けていった。



終章: 「明暗の彼方」


数日後、漱石山房は穏やかな冬の日差しに包まれていた。雪をかぶった庭石が静かに光を反射している。
驚くべきことに、漱石は順調な回復を見せていた。書斎の窓辺に座った漱石は、庭に降り積もる雪を眺めながら、静かに語り始めた。

「不思議な夢を見たようでな……」漱石は穏やかな表情で言った。「光り輝く天使のような少女と、博識な少年が現れて……あの時の記憶は、まるで霧の向こうにいるような……」
その言葉を、部屋の隅でこっそり聞いていたユウキとアヤカは、そっと微笑みを交わした。

「ところでな」漱石は机に広げた原稿用紙に目を落とした。「あの夜、私は確かに“向こう側”を見た気がする。生と死の境目で見た光景を、どうしても書き留めておきたくてな……」

その後、漱石は静かに筆を取り、物語の冒頭を書き始めた。

ある雪の夜、迷い込んだ夢の中で、私は二人の使者と出会った。彼らは命の灯火を守るべく、時の中を巡る不思議な旅人であった……。

後に漱石は、この体験をもとに新しい小説を完成させた。それは「夢十夜」の一編として編まれ、読者たちを不思議な夢の世界へと誘う物語となった。

***

現代に戻った二人を、タイムドクターが温かな笑顔で出迎えた。

「よくやりました。実は……これこそが本来の歴史だったのです」

「え?」二人は同時に声を上げた。

「漱石が一時的に持ち直したのは、実は君たちの活躍があったからこそ。歴史変革者の企みを防ぎ、本来あるべき歴史を守ったのです」

アヤカは、ふと思い出したように歴史の教科書を開いた。その時、黒装束の歴史変革者の姿が、どこか見覚えがあるような……。教科書に載っている明治時代の写真に写る人物と、どこか似ているような気がした。しかし、それ以上の答えは、まだ時が教えてくれない。

一方、ユウキは考え込むように腕を組んでいた。

「なあ、アヤカ。そういえば漱石先生が苦しそうなときになんでAED使わなかったんだ?」

アヤカは呆れた顔でため息をついた。「歴史には詳しいけど何も知らないのね。AEDは普通に息してる人には使えないのよ」

「え、でも漱石先生、あの時すごく苦しそうだったじゃんか」

「そもそも反応がある人には使っちゃダメなの」

ユウキは納得がいかない様子で首をかしげる。

タイムドクターは笑いながら肩をすくめた。「ユウキくんはアヤカさんにAEDを教えてもらう必要があるね。でも、それよりまずは冒険の反省会をしようか」

アヤカは口元に笑みを浮かべながらユウキを見た。「ちゃんと勉強しなさいよ。漱石先生も“学ぶことは人生の基礎だ”って言ってたでしょ?」

***

外では雪が静かに降り続いていた。研究所の窓から見える現代の街並みと、つい先ほどまでいた大正時代の景色が、アヤカの心の中で重なり合う。

漱石は、あの夜見た「光り輝く天使のような少女」の姿を、きっと心に留めているだろう。そして、その体験は新たな物語となって、未来へと紡がれていく。

ユウキとアヤカの時を超えた冒険は、まだ始まったばかり。歴史の教科書をめくれば、まだ見ぬ偉人たちが、彼らの訪れを待っているのかもしれない。

窓の外の雪は、静かに、しかし確かに降り続いていた。過去と未来をつなぐ白い糸のように……。

(おわり)


あとがき

この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

AEDをテーマにした作品を書く中で、「AEDを使わない話があってもいいんじゃないか」と思ったことが、この物語を生み出すきっかけとなりました。現代の救命技術としてAEDは欠かせない存在ですが、時には「道具がなくても救えるもの」があるのではないかとも考えたのです。それは、一人ひとりが持つ「勇気」や「思いやり」、そして「人を救いたい」という強い気持ちです。

夏目漱石という文豪を通じて描きたかったのは、人が他者に手を差し伸べる瞬間の「心の救命装置」のようなものです。漱石の作品には、時に苦々しい人間模様や孤独が描かれる一方で、人と人との絆や支え合いの重要性も込められています。その思想が、物語の核となりました。

今回の冒険の中で、ユウキやアヤカたちはAEDを手にすることはありませんでした。しかし、彼らの行動は間違いなく誰かの「命」を救いました。直接的な命でなくとも、人が生きる力や希望を取り戻す瞬間こそが、漱石の文学が私たちに教えてくれる「救命」の本質だと感じています。

もちろん、AEDをはじめとする救命技術は、現実において欠かせない大切な道具です。この物語が、その技術への理解や関心を深めるきっかけになることを願っています。しかし同時に、「道具がなくてもできることがある」というメッセージも、読者の皆さんに届けられたらと思います。

夏目漱石の文学と現代の救命技術が交差するフィクションを書くのは、とても不思議で、少し奇妙な旅でした。この物語が、誰かにとって心の中の救命装置となり、次の「誰かを助ける」力につながれば嬉しいです。

ありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!