憧れのお伊勢参り 〜室町時代の官僚の場合〜
応永二十九年(1422)四月十三日〜二十日条
(『康富記』1─167・168頁)
十三日己亥 晴、明日吉田祭必定云々、
自今夕勘解由小路猪熊式部亭面々行向夜宿、明日可参宮之故、爲精進屋者也、
李部講親也、面々取分銭一貫文許在之、但予借銭一貫文也、是ヲハ宗左衛門ニ
(者ヵ)
一結借リテ返之畢、今日返之間利平不加之也、
十四日庚子 雨下、今朝人々奉同道令参詣神宮、於草津有晝飯、於水口有
夕飯、則夜宿、講衆面々見左、
内名宿禰 内豎 頼賢 範景 良空
清給事中、新太都事、篤蔵主、宰相律師御房、中書、侍中、上林蔵氷、
宗種 親⬜︎ 葦屋 角田
度支外史、國子外史、予、左一史員職、弾正史職豊、清四郎貞範、彌次郎、
講親 内豎
式部季國、原弾正佐富、主殿大夫職藤、弾正氏郷、兵庫職久、官掌助包、
等也、
蔵氷ハ乗輿〈立烏帽子〉也、筭儒馬也、給事中馬也、高倉馬、自岩蔵将監入道
許出之傳馬也、此間連々加問答之處、雖及難渋堅令加問答責伏了、但馬ハカリ
出之、無食物口付、此外人々皆歩行也、
(以下略)
十五日辛丑 晴、於坂下有晝物、窪田夜宿、
十六日壬寅 晴、於飛兩(割書)「今之肥留歟」有晝物、今夕山田三日市場
大夫太郎宿著之、於宿連歌張行、予執筆、則懐紙内宮[
十七日癸卯 晴、夕方雨下、今日両宮々廻也、天岩戸一見、
今日自山田還向、於飛両夜宿、
十八日甲辰 晴、於窪田有晝飯、坂下夜宿、
十九日乙巳 晴、於水口有晝物、草津夜宿、當國之順光此宿来臨、有駄餉、
及大飲、
高倉知人也、
廿日丙午 晴、自草津立、於濱有酒、於上大路又有一献、晝程李部亭面々還向有
一献祝著、退散了、
今度参宮無為無事、就惣別珍重々々、大慶何事如之哉、
「書き下し文」
十三日己亥 晴れ、明日吉田祭必定と云々。今夕より勘解由小路猪熊式部亭に面々行き向かひ夜宿す、明日参宮すべきの故、精進屋に為る者なり、李部講親なり、面々の取り分銭一貫文ばかり之在り、但し予銭一貫文を借るなり、是れをば宗左衛門に一結借りて之を返し畢んぬ、今日返すの間利平(利は)之を加へざるなり、
十四日庚子 雨下る、今朝人々に同道し奉り神宮に参詣せしむ、草津に於いて晝飯有り、水口に於いて夕飯有り、則ち夜宿す、講衆の面々左に見ゆ、
(人名省略・注釈参照)
蔵氷は輿に乗る〈立烏帽子〉なり、筭儒馬なり、給事中馬なり、高倉馬、岩蔵将監入道の許より出だすの傳馬なり、此の間連々問答を加ふるの處、難渋に及ぶと雖も堅く問答を加へ責め伏さしめ了んぬ、但し馬ばかり之を出だす、食物口付無し、
此の外の人々皆歩行なり、
(以下略)
十五日辛丑 晴れ、坂下に於いて晝物有り、窪田にて夜宿す、
十六日壬寅 晴れ、飛兩(割書)「今の肥留か」に於いて晝物有り、今夕山田三日市場の大夫太郎の宿之に著す、宿に於いて連歌を張行す、予執筆す、則ち懐紙内宮[
十七日癸卯 晴れ、夕方雨下る、今日両宮々廻りなり、天岩戸を一見す、
今日山田より還向、飛兩に於いて夜宿す、
十八日甲辰 晴れ、窪田に於いて晝飯有り、坂下にて夜宿す、
十九日乙巳 晴れ、水口に於いて晝物有り、草津にて夜宿す、當國之順光此宿に来臨す、駄餉有り、大飲に及ぶ、高倉の知人なり、
廿日丙午 晴れ、草津より立つ、濱に於いて酒有り、上大路に於いて又一献有り、晝程李部亭面々還向し一献有り、祝著、退散し了んぬ、今度の参宮無為無事、惣別に就き珍重々々、大慶何事か之に如かんや、
「解釈」
十三日己亥 晴れ。明日吉田祭が必ず行われるそうだ。
今日の夕方から勘解由小路猪熊の式部卿季国の邸宅に伊勢講のメンバーが行き向かい、夜は宿泊した。明日伊勢にお参りする予定なので、季国の邸宅が精進屋になっているのである。季国が伊勢講の世話役である。講のメンバーの取り分は銭一貫文ほどあった。ただし、私は積立金の中から一貫文を借りていたのである。この分を宗左衛門から一貫文を借りて、講中に返済した。今日返済したので利子は加えられていない。
十四日庚子 雨が降った。今朝人々と同道し申し上げ伊勢神宮に参詣した。近江国草津で昼飯を食べた。近江国水口で夕飯を食べた。夜はそこで宿泊した。伊勢講のメンバーは左に見える。
(人名省略・注釈参照)
清原良宣(業忠)は立烏帽子で輿に乗ったのである。小槻内名は馬である。清原宗業も馬である。清原頼賢の馬は岩蔵将監入道のもとから出した伝馬である。この間、伝馬を出すことについてたえず言い合いになっていたところ、岩蔵将監入道は伝馬を出し渋ってきたが、問答の末説き伏せた。飼い葉と馬丁は出してくれなかった。この他の人々はみな徒歩で向かった。
(以下略)
十五日辛丑 晴れ。伊勢国坂下(亀山市関町坂下)で昼飯を食べた。夜は伊勢国窪田(津市大里窪田町)で宿泊した。
十六日壬寅 晴れ。伊勢国飛兩(割書)「今の肥留か」(松阪市肥留)に於いて昼飯を食べた。今日の夕方に、伊勢国山田三日市場の大夫太郎の宿に到着した。宿で連歌会を催した。私が執筆した。そして、懐紙は内宮[に奉納した。]
十七日癸卯 晴れ。夕方雨が降った。今日内宮と外宮を巡拝したのである。天の岩戸を一見した。
今日参拝を終え山田から下向した。夜は飛両で宿泊した。
十八日甲辰 晴れ。窪田で昼飯を食べた。夜は坂下で宿泊した。
十九日乙巳 晴れ。水口で昼飯を食べた。夜は草津で宿泊した。近江国の順光がこの宿にお出でになった。食事を持ってきてくれた。大いに酒を飲んだ。清原頼賢の知人である。
廿日丙午 晴れ。草津を出発した。湖岸の浜で酒を飲んだ。上大路(左京区吉田上大路)でまた一献あった。昼頃に季国の邸宅にメンバーが下向し、一献があった。喜ばしいことだ。その後、それぞれ退出した。
今度の参宮は何事もなく無事に終わった。すべてにおいてめでたいことであった。非常にめでたいことは、このことに及ばない。
「注釈」
「式部亭・李部」─式部卿季国。
「精進屋」
─精進潔斎のためにこもる所。神仏に参る前に体を清めるためにこもる舎屋(『日本国語大辞典』)。
「講親」─伊勢講などの講中の世話役(『日本国語大辞典』)。
「面々取分銭一貫文」
─講に預けていた旅行の積立金の分配金でしょうか。今回の旅費として一貫文ずつ支給されたものと考えられます。ただし、記主の康富は以前に講から一貫文を借りていたようで、宗左衛門から一貫文を借りて講に返済し、改めて支給してもらうという手続きを採ったものと考えられます。このことから、康富たちの伊勢講も単なる参宮を目的とした旅行資金積立集団ではなく、頼母子講や無尽講のような金銭融通集団であったことがわかります。また、金銭の融通には、利子が発生していたようです。
「宗左衛門」
─時期は下りますが、享禄四年(一四五五)三月二十九日条(『康富記』4ー150)に「召使文殿宗左衛門」という人物が現れます。この人物でしょうか。
「清給事中」
─少納言清原宗業。以下、人名については、東京大学史料編纂所のデータベース検索を利用しました。
「新太都事」─左大史小槻内名。筭儒(算博士カ)と同一人物。
「篤蔵主」
─乾篤。浄居庵(桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。
「宰相律師御房」─未詳。
「中書」─中務大輔清原頼賢。「高倉」も頼賢のこと。
「侍中」─蔵人岡崎範景。
「上林蔵氷」
─主水正の別称。応永三〇年(一四二三)八月二七日条(『薩戒記』)に清原良宣(清原業忠)が直講と主水正を兼任している記事があるので、清原良宣のことかもしれません。もしそうならば、傍注の「良空」は「良宣」の誤記・誤読の可能性があります。
「度支外史」─度支(たくし)は主計寮、外史は外記。少外記清原宗種。
「国子外史」─国子(こくし)は大学寮、外史は外記。少外記清原親種。
「左一史員職」─左少史高橋員職。
「弾正史職豊」
─右少史紀職豊。弾正台の役職を兼務していたものと考えられます。
「清四郎貞範」─葦屋四郎貞範。
「角田弥次郎」─未詳。
「原弾正佐富」─未詳。
「主殿大夫職藤」─主殿寮の役人。中原職藤。
「弾正氏郷」
─紀氏郷(桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。
「兵庫職久」─兵庫寮の役人。紀(中原)職久。
「官掌助包」─未詳。「官掌」(かじょう)は、左右弁官局の史生の配下。
「伝馬」
─逓送用の馬(『日本国語大辞典』)。輸送用の馬ぐらいの意味でよいかと思います。小槻内名と清原宗業は自前で馬を用意し、清原頼賢は岩蔵将監入道から借りたと考えられます。
「岩蔵将監入道」
─未詳。伝馬(輸送用の馬)を出すか出さないかで揉めていることを踏まえると、岩蔵将監入道は馬借(運送業者)だったのではないでしょうか。運送業で使用する伝馬を渡してしまうと、仕事に支障をきたすから、出し渋っているのだと考えられます。当時の馬の値段は一貫文以上で(「古代・中世都市生活史(物価)」『データベースれきはく』https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/ktsb/db_param)、決して安くはありません。大事な商売道具を貸し出して何かあったら大損害になるので、貸したくなかったのではないでしょうか。
ここで疑問が二つ湧いてきます。一つ目ですが、なぜ記主中原康富は、岩蔵将監入道が飼い葉と馬丁を出さなかったことを、わざわざ記載したのでしょうか。ケチだと言いたかったのでしょうか。それとも、いつもは出してくれるのに、今回は出してくれなかったから、つまり珍しいことだったからでしょうか。もし後者なら、馬と飼い葉と馬丁をセットにして貸し出すのが、当時の貸し馬の慣習であったことになります。
二つ目ですが、なぜ馬の賃貸料が記載されていないのでしょうか。単に書かなかっただけなのか、無償のレンタルだったのか、どうもはっきりしません。もし後者なら、次のようなことが考えられます。岩蔵将監入道は、中原康富を含めた伊勢講の面々の誰か(あるいは全員)と知り合いで、メンバーからの私的な要望であったため、レンタル料を取らなかった(取れなかった)可能性があります。礼銭ぐらいは支払ったのかもしれませんが、縁故による無償サービスだったから、貸し渋ったのではないでしょうか。
また、馬のレンタルは、本業とは異なった例外的な要望で、珍しいことだったのかもしれません。きっと、馬のレンタル業が商売として成立するほど、中世の人々は長距離を移動していなかったのでしょう。仕事(公務)で頻繁に長距離を移動する一部の人間(商人・運送業者・荘官など)は自前の馬を持つか、あるいは荘園に賦課された伝馬を利用すればよいのですから、彼らを除けば、私用のために馬を使って移動する人々は少なかったのではないでしょうか。
その他に、動産(馬)の賃貸借といえば損害賠償が問題になると思いますが、中世ではどのような対処法があったのでしょうか。とくに規定はなかったのでしょうか。気になるところです。
「大夫太郎」─御師か。
「順光」─未詳。
【コメント】
外記局や弁官局の役人を中心に、総勢21名以上が伊勢講(神明講)のメンバーとして旅費を積み立て、満を持してお伊勢参りに出かけて行きました。きっと楽しみにしていたのでしょう。無事にお参りできたことを心の底から喜んでいます。
参拝日程はちょうど1週間でした。この間の仕事はどうしたのでしょうか。また、役人たちの休暇の取り方はどうなっていたのでしょうか。今まで一度も考えたことがなかったのですが、室町時代の官僚たちも長期休暇が取得できたようです。どんな時に休暇が認められたのか。年に何日取得できたのか。毎年取得できたのか。いろいろ気になってしまいます。
さて、旅のルートですが、まず14日に京の季国邸を出発して東海道を東に向かい、滋賀県草津で昼飯を食べ、夜は滋賀県水口で宿泊しました。移動距離はだいたい50キロ弱ぐらいでしょうか。15日には水口を出発して東海道を東に向かい、三重県亀山市坂下で昼食をとりました。その後、おそらく関(三重県亀山市)へ向かい、そこから伊勢別街道を南下して三重県津市大里窪田にやってきたものと思われます。この日も移動距離は50キロ弱だと思われます。16日には窪田を出発し、伊勢街道を南下して三重県松阪市肥留で昼食をとりました。そして、夕方には外宮の門前町伊勢市山田の大夫太郎という御師の家にやってきました。到着まで3日、1日50キロ弱の移動が目安だったようです。室町時代の人にとって、この距離がきついのかどうかわかりませんが、歩かなくなった現代人にとっては、かなりハードな日程だと言えそうです。
一方帰り道ですが、同じルートを元に戻るだけでした。別のルートを通るようなことはしていません。ただし、17日に両宮の巡拝後、肥留まで移動し、そこで宿泊しているので、以後、宿泊場所と昼食場所が往路とは反対になっています。
最後に気になることを1つ。今回の参拝ツアーの費用総額はいくらだったのでしょうか。講から1貫文余り支給されていますが、それで足りたのでしょうか。それとも、お小遣いの足しぐらいにしかならなかったのでしょうか。こんなことがわかるとおもしろいのですが…。
2017年4月12日擱筆