ハーレム内の憂鬱 ③ 〜免罪の理由〜
【史料1】
応永三十一年(1424)六月一日・四日・八日条
(『図書寮叢刊 看聞日記』3─38〜45頁)
(田向) (兼宣)
六月一日、晴、毎事幸甚々々、祝着如例、抑長資朝臣自広橋可来之由申間出京、
(称光天皇)
是仙洞女中事、此間被閣了、而再発、禁裏・仙洞外様小番衆并楽人等悉可書
告文云々、長資ハ禁裏小番衆也、依計会自去年不参、然而加人数可書告文
(西大路) (世尊寺)
云々、隆富朝臣昨日書進云々、行豊朝臣も以広橋被仰出云々、
四日、雨降、長資朝臣帰参、語云、告文一昨日書進了、仙洞ニ祗候事ハ、先度
(季保)
院中祗候不可然事也、不吉之由有御沙汰、誰も今度者不祗候、四辻宰相中将
奉行之間、彼卿ニ付渡云々、人々起請、仙洞へハ不被取入、四辻宿所ニ皆取置
洞院(満季)(実盛)
云々、告文書人々縦雖為番之日、院中ニ不可参云々、内府・徳大寺大納言ハ
仙洞時宜ハ後記の為も不可然之間、難被仰之由室町殿へ被申、然而彼所存不許
(綾小路)
之間、徳大寺ハ雖無仰進而書進云々、洞院定同然歟、信俊卿老者之間御免歟
之処、自広橋可来之由申云々、是も定可被書歟、清華・老者等悉不漏、希代
不思儀也、起請題目書様ハ、右衛門佐局ニ不申通、惣而雖向後、禁裏・
仙洞女房達・女官・々人不可犯、其内以前女官等犯人ニハ其女官犯了向後
(松木宗量)
不可有其儀、既又生数子輩ハ除其人之由付注云々、中御門中納言入道露顕、
了 (松木) 中山
為人数之間逐電云々、子息宗継卿同罪、閇門戸籠居、有親朝臣ハ僧ニ成て田舎
(日野西資子)
へ罷下云々、友興頭臣ハ不知行方逐電了、女中皆告文書之、但二位殿・
(公光)
上臈〈三条相国息女〉、此両人不書、二位殿ハ禁裏依被執申不書、
(日野西資国女)
其妹廊御方も禁裏雖被執申、仙洞不許書之、上臈者室町殿聊被懸御手之間
畢
被除云々、自余悉書云々、室町殿毎日院参、大飲御張行、御内心ハ嫌疑人々
沈酔せさせられて、若有其失者、告文之失として為有御罪科、如此大飲御張行
云々、人々恐怖無極、何様前代未聞不思儀、且標示歟云々、仙洞此間有
御修法、如此御祈歟、
八日、晴、
(中略)
重有朝臣正永宿所へ立寄、永基朝臣ハ仙洞祗候、正永閑談、女中事、
(橘)
大納言典侍殿ハ知興朝臣密通露顕、仍知興切本鳥逐電了、右衛門佐ハ無懐妊之
儀、去五月廿九日只逐電云々、此局ハ有親朝臣・ 土岐与安密通勿論也、
召次
幸末佐も雖令密通、仙洞時宜快然之間、御空不知ニて幸末佐無其沙汰云々、
中御門中納言入道〈宗量卿、〉只今ハ女中無密通之儀、日比院中昵近之時
二位殿国母、密通申、只今露顕之間、可被流罪由有御沙汰、内々奉之則逐電
(広橋兼宣)
云々、二位殿不調、無面目御事歟、抑室町殿先日院参之時、一位大納言以下庭
(マヽ)
上蹲踞不可然、向後此儀可止之由被仰、又室町殿へ公家近習人々細々参候
(高倉)
不可然、向後者被喚外者不可参入之由被定、永藤卿為奉行、広橋以下喚之外
不可参之由、可進請文之由被仰、仍面々進請文云々、条々閑談云々、不思儀事
共也、
「書き下し文」
六月一日、晴る、毎事幸甚々々、祝着例のごとし、抑も長資朝臣広橋より来たるべきの由申す間出京す、是れ仙洞女中の事、此の間閣かれ了んぬ、而るに再発す、禁裏・仙洞の外様小番衆并びに楽人ら悉く告文を書くべしと云々、長資は禁裏小番衆なり、計会により去年より不参、然れども人数に加へ告文を書くべしと云々、隆富朝臣昨日書き進らすと云々、行豊朝臣も広橋を以て仰せ出ださると云々、
四日、雨降る、長資朝臣帰参し、語りて云く、告文一昨日書き進らせ了んぬ、仙洞に祗候の事は、先度院中に祗候然るべからざる事なり、不吉の由御沙汰有り、誰も今度は祗候せず、四辻宰相中将奉行の間、彼の卿に付し渡すと云々、人々の起請、仙洞へは取り入れられず、四辻宿所に皆取り置くと云々、告文を書く人々縦へ番の日たりと雖も、院中に参るべからずと云々、内府・徳大寺大納言は仙洞の時宜は後記のためも然るべからざるの間、仰せられ難きの由室町殿へ申さる、然れども彼の所存許さざるの間、徳大寺は仰せ無しと雖も進みて書き進らすと云々、洞院定めて同然か、信俊卿老者の間御免かの処、広橋より来たるべきの由申すと云々、是れも定めて書かるべきか、清華・老者ら悉く漏らさず、希代不思儀なり、起請の題目の書き様は、右衛門佐局に申し通さず、惣じて向後と雖も、禁裏・仙洞の女房達・女官・官人犯すべからず、其の内以前に女官ら犯す人には其の女官を犯し了りて向後其の儀有るべからず、既に又数子を生む輩は其の人を除くの由付し注すと云々、中御門中納言入道露顕す、人数たるの間逐電し了んぬ、子息宗継卿同罪、門戸を閇じ籠居す、有親朝臣は僧に成りて田舎へ罷り下ると云々、知興朝臣は行方知らず逐電し了んぬ、女中皆告文之を書く、但し二位殿・上臈〈三条相国息女〉、此の両人は書かず、二位殿は禁裏執り申すにより書かず、其の妹廊御方も禁裏執り申さると雖も、仙洞許さずして之を書く、上臈は室町殿聊か御手を懸けらるるの間除かると云々、自余悉く書き畢んぬ、室町殿毎日院参す、大飲御張行す、御内心は嫌疑の人々沈酔せさせられて、若し其の失有らば、告文の失として御罪科有らんがため、此くのごとき大飲御張行すと云々、人々の恐怖無極なり、何様前代未聞の不思儀、且つ標示かと云々、仙洞此の間御修法有り、此くのごとき御祈りか、
八日、晴る、
(中略)
重有朝臣正永宿所へ立ち寄る、永基朝臣は仙洞に祗候す、正永と閑談す、女中の事、大納言典侍殿は知興朝臣との密通露顕す、仍て知興本鳥を切り逐電し了んぬ、右衛門佐は懐妊の儀無く、去んぬる五月二十九日只逐電すと云々、此の局は有親朝臣・土岐世保との密通は勿論なり、召次の幸末佐も密通せしむと雖も、仙洞の時宜快然の間、御空知らずにて幸末佐其の沙汰無しと云々、中御門中納言入道〈宗量卿〉、只今は女中密通の儀無し、日ごろ院中に昵近の時二位殿国母と密通し申す、只今露顕の間、流罪せらるべきの由御沙汰有り、内々之を奉り則ち逐電すと云々、二位殿不調、面目無き御事か、抑も室町殿先日院参の時、一位大納言以下庭上に蹲踞すること然るべからず、向後此の儀止むべきの由仰せらる、又室町殿へ公家近習の人々細々参候すること然るべからず、向後は喚ばるるの外は参入すべからざるの由定めらる、永藤卿奉行として、広橋以下喚ぶの外参るべからざるの由、請文を進らすべきの由仰せらる、仍て面々請文を進らすと云々、条々閑談すと云々、不思儀の事どもなり、
「解釈」
六月一日、晴れ。すべてのことが非常にありがたいことだ。朔日の祝いはいつものとおりである。さて、田向長資朝臣が大納言広橋兼宣のもとよりやって来るつもりだと申すので、出京して伏見に戻ってきた。仙洞女中の一件は、しばらくの間放って置かれていた。しかし、再び事態が動き始めた。禁裏と仙洞の外様小番衆と楽人らは、みな起請文を書かなければならないという。田向長資は禁裏小番衆である。困窮により去年から参上していない。しかし、人数に加えられ、起請文を書かなければならなくなったそうだ。西大路隆富朝臣は昨日書いて進上したという。世尊寺行豊朝臣も大納言広橋兼宣によって起請文を書くように命じられたそうだ。
四日、雨が降った。田向長資朝臣が帰参し、語って言うには、一昨日起請文を書いて進上した。仙洞に祗候の件については、先日「(起請文を書いた者が)院中に祗候することは不適切なことであり、縁起が悪いことだ」とご命令があった。今度は誰も祗候していない。四辻宰相中将季保がこの一件を担当しているので、四辻季保に渡したそうだ。人々の起請文は、仙洞へ取り入れられず、四辻の邸宅にすべて集め置かれたという。起請文を書いた人々は、たとえ当番の日であっても、院中に参上してはならないそうだ。内府洞院満季と徳大寺大納言実盛については、後小松上皇のご意向は、将来に書き残される処置にもなるため、両人に起請文を書かせることは不適切であるので、ご命令になることができない、と室町殿足利義持へ申し上げなさった。しかし、足利義持の考えは許さないというものだったので、徳大寺には起請文を書くというご命令はなかったが、自ら進んで書いて進上したという。洞院満季もきっと同じであろう。綾小路信俊卿は年寄りなので免除なされるだろうと思っていたが、大納言広橋兼宣から、参上しなければならないと申し上げたそうだ。この信俊卿もきっと起請文を書かなければならないのだろう。清華家や年寄りらもみな漏らさない。世にも稀な思いもよらないことである。起請文の題目の書き方は、右衛門佐の局に申し届けていない。概して、今後、禁裏や仙洞の女房たちや女官、官人を犯してならない。そのうち以前に女官らを犯した人には、その女官を犯しおわって以後、同じことをしてはならない。すでにまた数人の子をもうけた人は、起請文を書かなければならない人から除外するということを付け加えたという。中御門中納言入道松木宗量の密通が露顕した。起請文を書く人間であったので逐電した。子息の宗継卿も同罪で、門戸を閉じて蟄居した。中山有親朝臣は僧になって田舎へ下向したそうだ。治部卿橘知興は行方が知れず、逐電した。女中もみな起請文を書いた。ただし、二位殿日野西資子と上﨟〈三条相国公光の息女〉、この両人は書かなかった。二位殿は天皇方がうまく取り計らい申し上げたことにより書かなかった。その妹の廊御方も天皇方が取り計らい申し上げたが、上皇方が許さず、起請文を書いた。上臈は室町殿が少しばかりお手を付けられていたので、人数から除外されたそうだ。それ以外の女中はみな書き終わった。足利義持は大宴会を強行した。そのご内心は、嫌疑の人々が泥酔なさって、もし過失があるなら、それを起請の失として処罰しなさるため、このような大宴会を強行したそうだ。人々の恐怖はこのうえない。本当に前代未聞の思いもよらないことであり、さらに何かが起こる兆しであろうかという。仙洞ではこの間御修法が行われた。このような不都合なことが起きないようにというお祈りであろう。
八日、晴れ。
(中略)
庭田重有朝臣が冷泉範綱(か)の邸宅へ立ち寄った。冷泉永基朝臣は仙洞に祗候していた。範綱と閑談した。女中のこと。大納言典侍殿は橘知興朝臣との密通が露顕した。そういうわけで、知興は髻を切って逐電した。右衛門佐は懐妊しておらず、去る五月二十九日にただ逐電したそうだ。この右衛門佐は中山有親朝臣と土岐世保持頼との密通はもちろんのことである。召次の幸末佐も密通したが、後小松上皇のお気に入りだったので、知らないふりをなさって幸末佐にその裁きはなかったという。中御門中納言入道宗量卿は、少し前までは女中との密通はなかった。近頃、仙洞方と親密であった時、二位殿国母日野西資子と密通し申した。今しがた露顕したので、流罪にせよとご命令があった。内々にこの件を伝え聞き申し上げ、すぐに逐電したそうだ。二位殿は不義密通をはたらき、面目ないことだろう。さて、室町殿足利義持が先日院に参上したとき、一位大納言広橋兼宣以下の者が庭先に蹲居することは不適切であり、今後この儀を止めよと仰せになった。また室町殿へ公家近習の人々がたびたび参上して祗候することも不適切である。今後は呼ばれた者以外は参入してはならない、と決められた。高倉永藤卿は担当者として、広橋兼宣以下の者に、呼ばれた者以外が参上してはならないという請文を進上せよ、とご命令になった。そういうわけで、各々が請文を進上したそうだ。一つひとつの事案をのんびりと話したという。思いもよらないことなどである。
【史料2】
応永三十二年(1425)六月二日条
(『図書寮叢刊 看聞日記』3─127頁)
(和気) (和気)(称光天皇)
二日、晴、無殊事、抑聞、医師郷成朝臣子息保成禁裏昵近昼夜奉公、而此間蒙
(称光天皇)
勅勘逐電云々、主上御寵愛女官蜜通露見之間、有逆鱗、失生涯、郷成ニ被懸
罪科云々、
「書き下し文」
二日、晴る、殊なる事無し、抑も聞く、医師郷成朝臣の子息保成禁裏に昵近し昼夜奉公す、而るに此の間勅勘を蒙り逐電すと云々、主上御寵愛の女官との密通露見の間、逆鱗有り、生涯を失ふ、郷成に罪科を懸けらると云々、
「解釈」
二日、晴れ。特別なことはなかった。さて、聞くところによると、医師の和気郷成朝臣の子息和気保成は称光天皇に親しく仕え、昼夜を問わず奉公した。しかし、この間勅勘を蒙り、逐電したという。帝ご寵愛の女官との密通が露顕したので、逆鱗に触れ、生活のよりどころを失った。郷成にも罪科が懸けられたそうだ。
「注釈」
「召次」
─召継。①取次。②院庁・東宮・摂関家で雑事をつとめ、時を奏する役の下級職員(『古文書古記録語辞典』)。
「幸末佐(こうまさ)」
─院の召次久重(『薩戒記』応永三十三年(1426)九月十三日条)。「御壺召次」(上皇の御所の庭の雑役をつとめたり、歌会の時に硯の水を供えたりする者、『日本国語大辞典』)とも記されている(『薩戒記』永享二年(1430)一月十九日条)。桜井英治「『神慮』による政治」(『日本の歴史12 室町人の精神』講談社、2001年、90頁)参照。
「中山有親」
─応永三一年六月十四日卒(『尊卑分脈』)。事件発覚後、わずか10日で死んでいます。
【コメント】
さて、今回の記事からわかることは、密通が判明しているにもかかわらず、起請文を書くことなく不問に付されている人物がいることです。それは、後小松上皇の召次幸末佐、称光天皇の生母日野西資子、三条公光の息女である上﨟です。幸末佐は上皇のお気に入りであったため、罪を免れたのでしょうが、日野西資子は天皇の口入によって、上臈は足利義持との密通関係によって、起請文を書くのを免れています。とくに、上臈に起請文を書かせることになれば、足利義持にも罪が及ぶことをなったでしょうから、それを避けるために不問に付したと考えられます。
また、室町殿へ公家近習の人々がたびたび参上して祗候することも不適切であるとされ、今後は呼ばれた者以外は参入してはならないと決められました。つまり、呼ばれもしないのに室町亭へ参上する公家がいたことがわかります。いったい、何の目的で、どのような仕事があって参向していたのでしょうか。女房漁りとは言わないまでも、密通につながるような出会いを防ぐために、このような取り決めをしたのかもしれません。
2018年11月11日擱筆