ハゲの悩みは超歴史的か?

  文安元年(1444)八月十九日条 (『康富記』2─89頁)


 十九日乙丑 晴、供養妙徳庵坊主、山城国水無瀬、〈或ハ廣瀬トモ云、山崎ノ南
 也、〉在行基御作阿彌陀佛、金泥、三尺餘、 経数百之星霜、坐一宇之蘭若、
 近年破壊、見路道、侵雨露之間、人不知之處、閏六月三日、俄有頓利之聞云々、
 傳聞分、盲者忽繼離朱之明、瘖瘂俄若予賜之言、或者女之喎僻反而成倩盻之貌、
 白禿變黒髪之粧、貧者遇福海、短折保壽山、其効験非一、近境遠路之道俗、善男
 善女之参詣成群、是則闡提之利生歟、彌陀則観音、観音則彌陀之謂者哉、又如
 大経所説者、無量衆寶随意、所欲応念則至之誓願、不可疑者也、仍今日予令参詣
 之、下総房同道了、於山崎椿屋用駄餉了、
  (後略)

 「書き下し文」
 十九日乙丑 晴れ、妙徳庵の坊主を供養す、山城国水無瀬、〈或いは廣瀬とも云ふ、山崎の南なり、〉行基御作阿彌陀佛在り、(割書)「金泥、三尺餘り、」数百の星霜を経、一宇の蘭若に坐す、近年破壊、路道に見れ、雨露に侵さるるの間、人知らざるの処、閏六月三日、俄に頓利の聞こえ有りと云々、伝え聞く分、盲者忽ち離朱の明を継ぎ、瘖瘂俄に予め之に言を賜るがごとく、或いは女の喎僻反って倩盻の貌を成し、白禿黒髪の粧に変へ、貧者福海に遇ひ、短折寿山を保つ、其の効験一に非ず、近境遠路の道俗、善男善女の参詣群を成す、是れ則ち闡提の利生か。弥陀則ち観音、観音則ち弥陀の謂ひなる者か。又大経の説く所のごとくんば、無量の衆宝、意の欲する所に随ひて、念に応じて則ち至るの誓願、疑ふべからざる者なり、仍て今日予之に参詣せしむ、下総房同道し了んぬ、山崎椿屋に於いて駄餉を用ひ了んぬ、

 「解釈」
 十九日乙丑 晴れ。妙徳庵の坊主を供養した。山城国水無瀬(あるいは広瀬とも言う、山崎の南である)に、行基作の阿弥陀如来の仏像(金泥で三尺あまり)がある。数百年の年月を経て、一宇の寺院に鎮座している。近年その寺院も壊れてしまった。仏像は道端にあらわとなり、雨露に濡れて人に知られることはなかったが、閏六月三日、突如ご利益の評判が立ったそうだ。伝え聞いたことによると、目の見えないものはすぐに目が見えるようにし、口のきけないものは、すぐにあらかじめ言葉を賜ったかのように話すことができ、あるいは女の歪んだ顔は、反対に愛らしい口元と美しい目元の容貌にし、白髪の禿げ頭は黒髪の相貌に変え、貧乏人は海のように深い幸福に出会い、短い寿命は長寿を保つ。その霊験は一つではない。近隣や遠方の出家・在家や善男善女が群れを成して参詣している。これは菩薩のご利益だろう。阿弥陀如来はすなわち観音菩薩で、観音菩薩は阿弥陀如来であるということか。また、仏説無量寿経上の所説のように、数限りない宝は望みのままにすぐに現れるという誓願は、疑ってはならないものである。そこで、今日私はそこに参詣した。下総房も同道した。山崎椿屋で食事をとった。

 「注釈」

「妙徳庵」─東福寺山内の三聖寺の塔頭か(『京都市の地名』)。

「水無瀬阿弥陀仏」
 ─大阪府三島郡島本町広瀬の浄土宗阿弥陀院のことか(『大阪府の地名』Ⅰ)。

「下総房」─未詳。

「山崎椿屋」─未詳。

【コメント】

 寂れた寺院の阿弥陀如来像が、突如霊験を発揮しました。おかげで広瀬の地は大賑わいです。障害が治癒するというのはいかにもという感じですが、その後がおもしろいです。白髪のハゲ頭が黒髪に変わる。この記事では、盲人・唖者という障害の治癒を記載した後に、「或者」を挟んで「女性の不細工な顔」と「白髪のハゲ頭」を併記しています。このことから、白髪のハゲ頭は病気や障害の類ではなく、コンプレックスの一つであったと解釈できそうです。どうやら、現代人同様、中世人もハゲ頭を好ましくない容貌だと考えていたようです。
 そういえば、なぜ人間はハゲ頭にコンプレックスをもつのでしょうか。あって当然、ずっとあり続けるはず、と信じている髪の毛がなくなるから? 他の人にはあるのに、自分だけなくなってしまうから? 単純にみっともないから? ハゲ頭が似合わないから? いろいろ考えられそうですが、中世人はどんな理由でハゲ頭を嫌ったのでしょうか。「好き」「嫌い」には本能的な要因と、社会的な要因があるでしょうから、ハゲ頭にも歴史研究が成立するかもしれません。「ハゲの社会史」なんて研究書があるとおもしろいのですが。

 さて、こうした中世人の願いを叶えてくれたのは阿弥陀如来でした。本来、阿弥陀様は衆生を西方極楽浄土に導いてくれる仏様であるはずですが、今回の記事では、現世利益を実現している仏様として登場しています。だからなのでしょうか、「阿弥陀様は観音様と同じだろうか」という不確かな言説が語られています。観音様は現世利益を実現する仏様で、阿弥陀様は極楽往生の仏様という常識があったからこそ、現世利益を実現する阿弥陀様は観音様と同体だという考えが生まれてきたものと考えられます。「阿弥陀・観音同一説」が、地域・階層ともに、どれほどの広がりを見せているのか、またどのような教義的根拠があって同じと見なしているのかわかりませんが、きっと民間信仰のなかで語られていたものなのでしょう。

2017年5月21日擱筆


*2019.6.1追記
 「阿弥陀・観音同一説」ですが、私はこれを、民衆が勝手に考えた発想だと思っていましたが、『理趣釈』・『理趣釈口決鈔』などの経典注釈書や口伝が根拠になっていたようです。この同一説が、いつの時点でどの階層にまで広まっていたのかは、よくわかりませんが、平安時代の仏教者にはある程度知られていた考え方だったようです(赤坂祐道「『五輪九字明秘密釈』における阿弥陀曼荼羅図『密教図像』14、1995・12、34頁、http://tokuzoji.news.coocan.jp/research.html、http://tokuzoji.news.coocan.jp/img/file10.pdf)。


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