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分断が生んだ誤情報
ネットは分断を生んでいるなとつくづく思う。
僕は精神に興味があるので、よく精神医学をYouTubeなどで調べる。
情報が錯綜しているので混乱したり違和感を覚えたりする。
分断
HSPの概念
英文字で定義が流行っている昨今だが、その流行のひとつだ。
HSPというのはひと言で言うと《繊細な人》という意味だ。要は気質だ。
HSPにまつわる書籍や、HSPアドバイザーといった肩書きの発信者が溢れている。
WHOなどの医療機関に公式的に認められているような広まり方だが、このHSPという概念、実は医学的な根拠はないのだ。
HSPはDSMに指定はされてはおらず、心理学上の概念であり精神医学上の概念ではない。HSPという概念は、最初に査読プロセスを経る前に1996年出版のエレイン・アーロンの『The Highly Sensitive Person』(ISBN 0553062182)という一般書籍を通じて広まったため、HSPは単なる自己啓発であり、通俗心理学のアイディアであると考えている人もいた。現在、HSPが既存のビッグファイブにおける性格特性の要素(外向性や神経症傾向など)から独立した概念ではないとして疑問視し、HSPが独自の概念であると立証するためには更なる研究が必要とする考えもある。
HSPへの否定
このHSPに対して、ある個人の精神科医YouTuberは否定的だ。
「HSPという根拠のない概念で人を騙そうとする悪徳ビジネスが横行する」
確かにスピリチュアルや宗教のような側面があるし、そういったものを利用して、心が弱い人を騙そうとする人間は山ほどいるだろう。
しかし、科学的に証明されたもので悪徳な金儲けをする人間もいる。
発達障害は精神医学的に証明されている。しかしそれを使った悪徳なビジネスも山ほどあるだろう。
発達障害が科学的に証明されていると言っても、まだ原因が不明であり、診断も医師による主観的なものがあるため、「傾向がある」などといった曖昧な診断を受け、結果《グレーゾーン》という診断で悩む人間が後を絶たない。
そんな中で悪徳ビジネスはハッキリ言い切るのだ。
「お子さんが発達障害になるのは農薬入りの野菜が原因です!」
「発達障害は毒親が原因!育て方を間違えて脳が歪んだのだ」
「発達障害は甘え!」
「定型発達という概念はない」
「発達障害は弊社のサプリで治す」
「発達障害などではなく才能!」
「発達障害は個性だ」
このような事をフレーズにして、治すために別の誘導を患者にさせるのだ。
もちろん精神科医は否定する。証拠が無いからだ。
「食べ物で発達障害にはならないですよ騙されないでください」
「育て方は関係ありません」
「発達障害を根本的に治す方法はありません」
しかし証拠を提示できないという意味では医者側にも説得力はない。発達障害の原因が分かっていないのだから。
悪魔の証明というやつだろう。
肯定する証拠は無いが、否定する証拠も無い。
結局、発達障害というのも性格にレッテルを貼っているだけという意味ではHSP診断と五十歩百歩の側面も否めないのではないか。
HSPというそれまでモヤモヤしていたことに対して、答えを出してくれたものに吸い寄せられる弱った人の感情に漬け込む効果のない悪徳ビジネスが横行する…と個人精神科医は否定していたが、それは発達障害も同じだ。
発達障害をダシにした悪徳ビジネスはHSPと同じくらいあると思う。そしてカモにされた人もいるだろう。
心が弱って藁にもすがる思いの人間が興味を持つ。その人間は余裕が無いため、決まって視野狭窄に陥っている。
前述したような「障害ではなく才能!」や「食べ物が原因!」というような独自解釈をしてしまっても完全には否定できない。HSPと同じで、発達障害も定義が曖昧だからだ。
ネットの分断が生んだ錯綜と誤解、誤謬だ。
衝突を恐れてそれぞれのコミュニティにひきこもり、ぬるま湯の中で適当に甘やかしあいながら、好みの「真実」を垂れ流す。
もとの定義が曖昧ゆえ、嘘か本当かも判断が付きにくいものだからこそバラバラのコミュニティで都合のいい真実を叫ぶのではなく、ひとつのコミュニティで真偽を確かめ合うのが重要だろう。
個人のチャンネルで医学以外の概念を否定しても、それは個人の感想にしかならない。
自閉症の是非
個人精神科医は電車が好きな人間(撮り鉄など)を自閉症という発達障害の一種だと解釈し発信している。
しかし他の研究者はそのテーマを扱う際、《邪魔をされるとキレる》《一定の法則性があるものに夢中になっている》などといった当てはまる部分もあるとしたが、断言はできないとしている。
同じ精神医療従事者でも、見解が食い違っているのだ。
個人的な解釈、意見ということならば大問題だ。偏見を助長している。マニュアルに書いていることだけを発信するべきだ。同じ医療従事者という肩書きを持っていても、言っている事がそれぞれ違うならば受け取り側は混乱するだろう。
影響力が大きいのなら尚更気をつけるべきだ。
まだ個人の意見のみだけならいいのだが、公式マニュアルに書いていることと、個人の意見をごちゃ混ぜにして発信しているのでタチが悪かったりする。
かみ合わないのにぶつからない「真実」の数々。
誰も否定されないが、故に誰も正しくない。
しかし事実を淡々と述べるより、個人の意見を織り交ぜて発信した方が、視聴者は吸い寄せられるのだろう。
ノンフィクションのドキュメンタリーより、演出で誇張されまくったフィクションの方が人気なのと同じだ。
場合によっては誇張された方を真実だと思う人間もいるだろう。
死について
その個人精神科医YouTuberは
「患者さんより死について考えている」
と言っていた。
しかしその人の内面を見た事が無いのに、なぜそんなことを断言出来るのだろうか。
インクルージョンとは
「インクルージョンが大事だ」と、個人の精神科医YouTuberは言う。
インクルージョンとは《包括的》という。
包括的というのは具体的にどんな状態なのだろうか。
定義も結果も過程も霧だらけだ。
僕は時代と逆行していると思う。
ネットが分断を起こし、それぞれが違う属性を持った人々を否定しあっている。インクルーシブからは程遠い。
ジャンル別で開けた議論をするようなシステムデザインのSNSが必要だろう。
LINEのオープンチャットのようなものが良さそうだ。
どこからが森?
個人の精神科医は森の中で暮らしている人が健常者で、森の外で暮らしている人が
本人は自分も《森》の外にいるとしている。
ならば漫画家は
公務員(特に教師)はネットでは《社会人経験が無い》扱いをされて揶揄されていることがある。
発信文化の悪いところ
投げっぱなし
発信をすることは悪い事ではない。
しかしその事に対してのコメントには、ほとんどハートマーク(確認証)しか付けない。
疑問や指摘、質問に対してもだ。これは発信者としての責任を果たしていないのではないか?
確かに「コメントが多すぎて全部は見られない…」というのはあるだろうが、確認証を付けているということは、目を通しているということだ。
発信というのは責任がある。ましてやそれが医療系のことならなおさらだ。その情報を見聞きした視聴者からの切実な質問や意見に対して、確認証を付けるだけ…というのは無責任ではないだろうか。
個人的な解釈
前述した《自閉症の是非や定義》もそうだが、個人的な解釈や決めつけがある。
根拠がないのに、さも《公式》のように発信している印象が目立つ。
医者としてと個人としての意見をごちゃ混ぜにするのは危険ではないだろうか。
数字=正しさ?
チャンネル登録者の多さや、高評価数は説得力や信ぴょう性の要素にはなるだろう。
しかしそれが絶対的な正義ではない。
結局個人の発信内容なのだから限界も間違いもある。
前述したが、TwitterもYouTubeも閉鎖的なプラットフォームだ。
そのコミュニティでは評価されていても、結局《閉鎖的な》コミュニティでの評価なので、エコーチェンバーである可能性も大いにあるのだ。仲間内では評価されていても、世間とはズレている。
「コロナワクチンは悪だ!」というような動画も再生数や高評価数はかなり多いが、社会全体で見ると極端な意見だろう。
「日本一の精神科医YouTuberになった」
やはり《個人》としての情報発信を行っている意識がある。
ということは《公式の精神科マニュアル》だけではなく《個人の主観》や《独自の解釈》《マニュアルの誇張》が入り込んでいるということが予想される。
要は数字欲しさに先走っている可能性があるのだ。
事実確認を行わないで誤情報を流すマスコミと同じだ。