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《正しい努力》は結果論
よく「努力の方向性が間違っている」
という言動を聞く。
しかしそれで結果が出た場合、方向性はあっているということになるのか。
例えば受験に受かりたいが偏差値が低い受験生が、試験前日に神社へ神頼みに行ったとする。そうすると試験中に神様が現れて、答えを教えてくれた。
現実的にスピリチュアル的なものは効果がないが、仮の話だ。結果的に《神頼み》という努力は方向性が間違っていると思われがちだが、その努力で結果が出た場合、その行為は正しかったと言うことになる。
もっと現実的な例だとプロゲーマーやYouTuberなどがそうだ。
まだプロゲーマーやYouTuberというものがない時代、動画投稿やゲームなどは、お金にならなかった。つまり無駄なのだ。何の役にも立たない。
しかし最近では一攫千金のチャンスと見なされている。
お金を稼ぎたいからゲームやYouTubeをするというのは、プロゲーマーとYouTuberが確立されていない時代の価値観からすると《努力の方向性が間違っている》という評価を下されがちだ。
しかしいざ結果さえ出ていれば、どんな方向性でも努力になる。ボクシングのロマチェンコは実に奇妙なトレーニングをしているが、結果を出しまくっているため、皆がそのトレーニングを真似る。これは室伏広治にも言える。
本人は努力だと思っていなくても努力になる。これは本当にそうだ。
そして周りの人間は、自分には努力できないということを理由に「努力できる才能がある」「この人は努力できる天才」などと言ったりする。
結果さえ出ればどんなに怠惰でも努力として肯定され、逆に結果が出なければどんな苦行も《方向性がおかしい》と否定されるのだ。
僕はnoteを頑張っているがあまり評価されない。他の人からすると努力の方向性がダメなのだろう。そもそもnoteをやること自体全く生産性の無いことだとも思われる。
結果を出しているか否かは金になっているかどうかでもある。
オリンピック選手より、プロ選手の方が評価されるのはみなが共通して価値を見い出せるものを持っているからだ。
しかし努力は美徳ではない。結果が同じなら、労力は少ない方がいいだろう。
これが努力の正体だ。所詮そんなものだ。