《才能》を考える
生まれ持ったものが大きいのかな?
それで人生決まるのかな…。
才能=評価 でもない。
白岩蘭奈という選手が地方のチームにいる。
身長は170ほどなので、日本代表に選ばれるような身体構造ではない。
しかしYouTubeにアップされている彼女の試合映像は、再生回数が100万を超えているものが複数ある。
身体構造や技術といった能力値で白岩蘭奈氏より優れた選手は沢山いるだろう。
しかし彼女は、《容姿》という別の基準で評価されている。
容姿というのは審査基準が極めて主観的で曖昧な能力である。しかし才能があるという事実はYouTubeの圧倒的な再生回数が証明している。
才能とはなんだろうか。
《生まれ持ったもの》
《努力以外の特性》
《体質》
真逆の特性は《障害》や《病気》という概念だろうか。
何をもって障害とするかも曖昧である。
今でこそ同性愛は個性のひとつと見なされていたが、かつては精神疾患に分類されていた。
しかし最近ではHSP(医学用語ではない)や人格障害といった新しい障害が出てきた。
これも共通するのは《生まれ持った特性》とすることだ。
治すすべはない。
才能は有益で役に立つ特性なので、治療や矯正をしようとは思う人間は少ないだろう。
整形=美形になること だ。
あえて不細工に整形する人間を僕はスペースコブラくらいしか知らない。
あえてロボトミー手術をしてバカになろうとする人間も知らないし多分いないと思う。自分からバカになろうとする時点でバカだろうからだ。
ほとんどの才能も障害も生まれ持ったもので変えられない。趣向が特にそうだ。
ゲイだって男を好きになろうとして好きになったわけではない。気付いたら好きになっていたのだ。
パクチーが好きな人だってそうだろう。無理やり克服してそのあと好きになったのだとしたらそれは思い込みだ。自己催眠か洗脳と考えて間違いない。
それらは嫌いという趣向にもそのまま適用できる。
食わず嫌いなら分からないが、実際に食べてみて嫌いならばそれは嫌いなのだ。
嫌いという生まれ持った感性であり、それは特性であり、才能であり障害なのだ。
恋愛感情は食った経験がなくても自然と湧き上がるものだ。それも生まれ持った特性であり才能であり障害なのだろう。
才能とされているものは変えようとする者がそもそもいない。周りから障害と言われ、責められるから後ろめたくなり、変えようとするのだ。
病にも才能?
アフリカにはマラリアが蔓延している。
と同時に《鎌状赤血球貧血》という病気も遺伝的にその地域の黒人が持っているらしい。マラリアとその鎌状赤血球貧血がどう関係しているかというと、鎌状赤血球貧血になると貧血になりやすくなるが、赤血球が壊れやすくなるので、結果的にマラリアが赤血球に寄生できなくなり、感染を防ぐのだ。
日本にはマラリアがほとんどない。そのためか鎌状赤血球貧血もほとんどない。
日本でも同じ割合で鎌状赤血球貧血患者が存在するならば、ただの偶然で済ますこともできるのだが、マラリアが流行っている地域に集中してその遺伝的な病気が淘汰されずに受け継がれている。
偶然とは思えない。
僕は偏頭痛を持っているのだが、偏頭痛も何かメリットがあるから淘汰されていないのだろうか。そして鬱病などの精神疾患も何かブレーキ的な役割を担っているのか。