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アラカン女の「じゃじゃ馬半生記」

今日でNote二回目。

使い方がよくわからず、「??」だらけでアップした昨日の記事。さっき見たら6名もの方々から「スキ」をいただいてる!うわ~!ありがとうございます!私の駄文を読んでいただいただけでも感謝なのに。いや~、いっきにテンション上がりました!感謝、感謝です!


・・と、喜んだ後に気付きました。

「お初のご挨拶してないよね?」

初回からいきなり長文をぶっこんで知らぬ顔とは。たいへん失礼をいたしました。では改めてご挨拶申し上げます。


はじめまして!Chicaと申します。

年はアラカンです。・・と書くと、

「嵐寛寿郎のこと?」

なーんて言う爺様はNote民にはいらっしゃらないと想定し、続きを書かせていただきます。(ちなみに嵐寛寿郎とは戦前日本を代表する歌舞伎役者。当時のスーパースターで「アラカン」と呼ばれていたとか。私はまだ生まれてないし知らないし!・・と、少しでも若いことを強調w)

「えっ?私の親より上じゃん?」

中には

「うちのばーちゃんと同世代?」

と言う方もいらっしゃるでしょう。そんなばーちゃんが若い人に混じってせっせとキーボードを叩いている。そろそろ認知症に入りかけた脳を必死で動かしながら。でも頭は錆びても思い出は錆びません。人生60年近く経験してきたアレやコレやを楽しく綴っていきたいと思っています。


では自己紹介を。エッヘン。

私は1960年代前半、日本海側の雪国に生まれました。

両親は工場を経営しており、きょうだいは五歳年上の兄が一人。几帳面で努力家の兄と違い、典型的O型の私は大ざっぱで細かいことが大の苦手。末っ子で女の子だったこともあり、親は「ま、いっか。元気に育ってくれれば」と諦めモード。それで調子こいた私は、勉強もせず好き放題。絵や作文が好きだったのでせっせと紙芝居を作っては

「10円で見せてあげる」

と近所のおばちゃんに売りに行くという、消費者センターからクレームが来そうな困った子どもでした。

高校生になってからは昨日も書いたように演劇部に入り、

「将来は女優っしょ?」

と信じて疑わなかったポジティブさ。「鏡を見ろよ!」と当時の自分に突っ込みを入れたくなりますが、思い込みが激しかった私は聞く耳を持たなかったんでしょうね。女優を目指し東京の演劇学校に入ろうと決意。芸名まで決めていたのに、

「東京?バカモーン!怖い人間に食われちまうぞ!」

と父に大反対され、あっさり挫折。仕方なく関西地方の短大に入学。

「23で結婚して家庭を持って子どもを産んで。それが女の幸せよ」

と周囲に洗脳され、その呪文通りに23で結婚。相手が名家でお金持ちのお坊ちゃまだったことから、親も親戚中も「玉の輿だ!」と大喜び。お坊ちゃまのご両親がキャッシュで家を買ってくれて、

「何?このハッピー&ラッキー人生!」

と有頂天のまま結婚生活突入。


しかし私は運を使い果たしたようで、そっからが試練の連続。結婚が幸せって誰が決めたの?責任者出てこーい!・・ってな生活を20年送り、なんだかんだで離婚。それからも試練は続き、ああもうどん底!いや、まだ底がある?えっ?何、これって底なし沼?いつになったら沼から出れるんじゃい!

・・って日々が10年近く続き、やっとどん底タイム終了!はいお疲れ様~!

で、ようやく光が見えて来た昨年。さあ新しい人生に向かってジャーンプ!と張り切っていた矢先に新型コロナ。なんなの一体。また試練?私、Mっ気ゼロなんですけど?

とぼやいていても仕方がありません。こんなことで負けるワタシじゃない!来たる60代、女の人生これからじゃー!と鼻息だけは荒く、いろんなことに挑戦しています。かつて横浜中華街の有名占い師さんに「2000人に一人のじゃじゃ馬の手相」と言われた私。持ち前の好奇心と行動力で、これからも大地を蹴って暴れていくのでしょう。

こんな私を見て、

「こんなばーちゃんでも頑張ってるんだし、私も負けずに頑張ろう」

と元気を出して下されば嬉しいな。そして私の経験がどなたかのプラスになればこんな幸せなことはありません。私も若い皆さんからいっぱい元気や刺激をいただきたい。心からそう思っています。

これからもどうぞよろしく!

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