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静かな精神的暴力 〜モラル・ハラスメントに立ち向かう〜
これは典型的なモラル・ハラスメント(精神的な暴力)の事例です。
直接的な暴力や職権の乱用ではなく、巧妙な言葉と態度で相手の存在価値を否定していく。そして最も深刻なのは、被害者の内面に深い亀裂を作り出すという点です。
総務部で15年働いてきた中村さん(仮名・42歳)が、私のカウンセリングルームに来たのは真冬のことでした。
「先生、私、おかしくなってるのかもしれません」疲れ切った表情で、彼女はそう話し始めました。
見えない暴力の始まり
きっかけは新しく入ってきた木村さん(仮名・28歳)の言動でした。彼女は、直接の上司でも部下でもない同僚。しかし、その言葉は巧妙に中村さんの心を蝕んでいきました。
「こんなやり方、もう古いですよ。全部変えましょう」
会議室で告げられたその一言に、中村さんは返す言葉を失いました。確かにExcelで手作業の部分も多い。でも、これまでそれで困ることはなかった。むしろ、柔軟に対応できていたはずでした。
モラハラの手法
木村さんの行動は、モラル・ハラスメントの典型的な特徴を示していました。
◆ 表面上は正当な批判
・「無駄な作業が多すぎます」
・「もっと効率的にできます」
・「属人的な仕事は、リスクですよ」
◆他者を巻き込んだ孤立化
・経営層には「古い体質の象徴」と吹き込む
・若手には「時代遅れの存在」と囁く
◆被害者の価値観を否定
・「そんな余計な気遣い、業務の妨げになりますよ」
・「経験や勘に頼るのは危険です」
◆じわじわと自尊心を破壊
・「このくらい基本的なことも分からないんですか?」
・「あなたの世代の人は、そうやって変化を拒むんですよね」
心の中の戦場
モラル・ハラスメントの最も深刻な特徴は、被害者の内面に矛盾した感情を作り出すことです。
「私の経験は、本当に無駄なのか」
「若手への気遣いは、おせっかいなのか」
「変化を恐れているのは、私の方なのか」
自分を疑い始めると、立つ場所がなくなっていく。相手は決して怒鳴ったり、直接的な暴力を振るったりはしません。ただ、あなたの存在価値を少しずつ否定し、内側から崩していくのです。
気づきのプロセス
カウンセリングで、私は中村さんとともに、丁寧に状況を整理していきました。
モラル・ハラスメントの特徴を理解することで、中村さんは少しずつ、自分が直面している状況を客観視できるようになっていきました。
「先週、新入社員の佐藤君が、一人で残業してるの見かけたんです。何気なく話しかけたら、実は手順が分からくて止まっていたみたいで...」
木村さんの新しいマニュアルには載っていない、現場の機微。中村さんのような経験者だからこそ気づける部分があったのです。
再生への道
カウンセリングを重ねる中で、変化が表れ始めました。
「先生、昨日、はじめて木村さんの意見に反論できたんです」
それは給与計算の自動化に関する会議でのことでした。
「確かに自動化は良いことです。でも、産休からの復帰組は、給与計算が複雑になります。そこは人の目でのチェックが必要かもしれません」
静かな、しかし確かな声で、中村さんは現場の実態を伝えました。
新たな気づき
その発言をきっかけに、中村さんは少しずつ、自分の経験を言語化できるようになっていきました。
「効率化すべき部分と、人の手を残すべき部分。それを見分けるには、現場での経験が必要なんです」
長年の経験は、決して古びた知識の集積ではありませんでした。それは、組織の中の生きた知恵だったのです。
回復と成長
いま中村さんは、若手社員の相談役として、新しい存在価値を見出しています。
「自動化された業務フローの中でも、必ず例外は発生します。そんなとき、経験者の直感は意外と役立つんですよ」
時には木村さんと意見が対立することもあります。でも、以前のような自己否定は、もうありません。
「完璧な正解はないんです。大切なのは、システムと人、両方の視点を持つこと。それが私の役割なのかもしれません」
組織における示唆
中村さんの事例は、モラル・ハラスメントが組織にもたらす深い課題を示しています。
表面上の効率化や改革の陰で、確実に存在を否定される人々。しかし、組織に本当に必要なのは、多様な価値観を認め合い、活かし合える関係性なのではないでしょうか。
中村さんの回復は、その可能性を私たちに示してくれています。