見出し画像

あかんたれにいちゃん13

藁をもつかむ思いで・・・

キラーストレスに屈して入院してしまった私だが、ストレスに対する知識はもっていたので、なんとか持ちこたえようとストレスを軽減に努めていた。
しかし、減らしても減らしても、それを上回るストレスがふりかかる。
結局、バケツの中の汚水を捨てても捨てても、汚水が注入される状態。
捨てる量が追いつかず、溢れてしまったわけである。

それでも、ストレス軽減の努力がなかったら、入院程度で済んだかすらわからない。今思うと恐ろしくなる。その頃の私は、藁をもつかむ思いで自己啓発本やスピリチュアル本を読んでいた。なにか自分を救ってくれる教えを求めていたように思う。気分転換的なことも必要であったが、それよりも物事の捉え方や解釈や考え方を変える必要性を感じていたのかもしれない。対処療法ではなく、根本治療的なものを心が求めていたのだと思う。誰にも話せず、自分で抱え込んでいたため、そういうものが得られそうな本などに頼るしかなかった。しかし、その探求のおかげで大きな学びを得ることができたのは間違いない。どれも勉強になったが、その中でも私がかなり救われたと思う教えを紹介した。

その教えを説いていたのは、小林正観さん。斎藤一人さん。伊勢白山道さん。そしてブッタ。

まず、小林正観さんは、とてもわかりやくす、押しつけでなく、心が軽くなるような教えがたくさんあった。特に好きなのは。「そっから先は神の領域」という言葉。すべてを自分でなんとかしようと思っていた私にとっては、どんなに力のある人でも限界があり、ある一線から先は、自分の力ではどうにもできず、神にお任せするしかない領域があるということ。そして、執着することが自分の悩みにつながっていることを教えてくださった。

斎藤一人さんは、小林正観さんととても似ている教えだが、実業家ならではの視点でこちらもとてもわかりやすく、何よりもおもしろい。思わず笑ってしまう。
YouTubeでの音声公開が多く、大好きな荒川の土手の散歩道を歩きながら、斎藤一人さんの教えを聞き、時に笑い、時に泣いたことを覚えている。
斎藤一人さんの教えを聞いていると、不思議なことに簡単に四葉のクローバーを見つけることができた。幸せの波動が呼び寄せていいるのかもしれないと思ったこともあった。

実は、母が介護鬱になりかけた時、私が斎藤一人さんの本やCDを勧めて、母が立ち直ったということがあった。
さらに不思議なことに、このような状況に陥る何年も前に、私は斎藤一人さんの本を読んでいたのだが、何一つ覚えていなかったのだ。数年前には私のレベルが低すぎたため、この教えが入ってこなかったのだろう。そして、この教えを本当に必要としている状況だからこそ、素直に自分の中に入ってきたのだろう。
ここぞという時、求めていれば、そういう人物やそういう教えに出会うことができるのだとありがたく思ったことを覚えている。

そして伊勢白山道さんとその教えの元になったと思われるブッダ(仏教)。
伊勢白山道さんの教えもわかりやくす、すーっと自分の心に入ってくる。
あーそうだな。あーそういうことか。サラリーマン経験のある伊勢白山道さんの教えはビジネス界に身を置く人にも素直に受け入れやすい教えだった。
また、ブッダの教え、つまり仏教にも驚いた。「超訳ブッダの言葉」の編訳の
小池龍之介和尚が仰っているとおりブッダの教えは、認知科学であり心理学であり、実践的な心のトレーニングであったのだ。
2500年前の教えが現代人にも役に立つということは、2500年前も今も、人間の本質というものは変わっていないということだろう。

そして、ブッダの教えに対して驚くべき学びがあったのは、産業カウンセラーという資格を取るための心理学等の勉強が大いに役立ったのだと思った。
そして、人に悩みを聞いてもらうというカウンセリングがどれだけ人が背負っている荷物を軽くしてくれる効果があることも、自分の体験を通じて知ることになるのだ。

そして、あえて挙げるとすれば、稲盛和夫さんがお勧めされていた、「シルバ・バーチの霊訓」だと思う。かなりスピリチュアル的な話なのだが、そこに書かれている一節で私は感謝と勇気が沸き起こったことを覚えている。
それは、「善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。成果が表れないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の姿勢で取り組んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りにすることです。」
この一節で自分は一人で闘っているわけではないと勇気をもらったことを覚えている。

カウンセリングを侮ることなかれ

私が母の代わりに兄に関わるようになった頃、仕事上、カウンセリングの資格を
取得するために産業カウンセラーの勉強をしていた。正直、カウンセリングはメンタル不調の人が受けるものだと思っていた。今でも多くの方がそのように思っているのではないだろうか。自分と向き合うことは、結構しんどいことであったが、おかげでありのままの自分を受け入れることができるようになったと思う。

産業カウンセラーの資格を取得した後、人の話の聴き方というのは劇的に変化したと思う。自分のことばかり話すタイプであった私が話を聴くことが苦でなくなったのは驚きだった。なによりも、善悪は別にして、人にはそれぞれの正義があり、その正義を貫こうとしているのだということがわかるようになり、やみくもに自分の正義を振りかざし、人を責めるということも少なくなったように思う。

カウンセリングの効果は、「話す」=「離す」ことであり、目の前の問題から距離を置き、客観的に現状を見ることができる視点を持つことができるようになる。そのことによって、柔軟な考え方に変わり、気持ちが楽になり、問題解決につながるということも少なくないのである。したがって、メンタル不調の方に限らず、問題を抱えているすべての人に役に立つものであることを実感している。

にもかかわらず、私は自分の抱える問題を人に話すことができなかった。
自分で解決しなければならないと思いこんでいたのである。
その結果、泥沼にはまって身動きができなくなってしまったのである。

そんな状況に陥ってから、カウンセラーの友人に話を聴いてもらう機会があった。私は堰を切ったように話し続けた。友人は、自分の辛い気持ちや怒りや悲しみを黙って受け止めてくれた。友人の目に光るひと粒の涙を見たとき、そう、
この辛い気持ちをわかってくれる人がいると思ったとき、肩にのしかかった重圧が溶けて軽くなっていくことを感じたのである。もっと早く、話を聴いてもらえばよかった・・・・。後悔の念が湧き上がってきた。
しかしこの日を境に、不思議と兄を殺したいと思う気持ちは薄れていった。
もちろん決して許す気持ちにはなれなかったが、なんとも言えないあたたかくやわらかな気持ちが私の心の中に芽を出したような、そんな気がしたのであった。
                                つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?