ながく、伸びる影に。
ふたつの影を重ねてひとつになるのが嬉しかったあの日。
ゆっくりと見上げた横顔を、
長く上向きのまつげを、
目が合って照れくさそうに目を細めて笑う姿を、
私はきっと忘れないだろう。
アメリカに行く。
今夜の夕飯は何にしよう?と
冷蔵庫の中を思い出していた時、彼は言った。
アメリカ?
私は頭にキャベツを思い浮かべながら聞いた。
キャベツがあるから、豚肉と炒めてもいいし、
ちぎりキャベツにしてしょうゆとすりごま、
ごま油を回しかけ食べてもいい。
うん、アメリカに三ヶ月ほど。
キャベツとアメリカが頭に交互に現れる。
アメリカ…、あの自由の女神のある?
私は彼に聞く。
うん、そう。
当たり前じゃないか、というような顔つきで
彼は私をみる。
アメリカか…
アメリカねぇ…
当時まだ20代だった彼は
明日、ディズニーに行ってくる、くらいの響きで
私にアメリカに行く、と言った。
私は別にいいんじゃない?と頷いて
またキャベツと他の食材の組み合わせについて考えようとしていた。
すると彼は首を横に振り、私の肩を掴み言った。
そういうところなんだ、
ボクはキミといるとね、とても悲しくなるんだよ。
ボクが3ヶ月もキミの前から居なくなっても…
キミは淋しくないの?
何を言っているのだろう?
今度は私が首を横に振り、言う。
淋しいよ。
けど、Kが決めたことでしょう?
私がそれにとやかく言う筋合いはないよね?
私がいかないで、って言ったらやめるの?
彼のブルーグレーの目を見て言うと
彼はとても悲しそうに…ほんとうに悲しそうに笑って言った。
違うんだ。
この人の心のなかには、深い溝みたいなものがあって、埋めても埋めても埋めても埋まらない
そんな満ち足りない場がある。
それを私で埋めようと求めてくる。
私にはそれがわかるのでなるべくその溝に触れないように、落ちないように気を付けて過ごしているのに。
どうしてそんなことをいうの。
寄り添いたくなる。その溝を、決して埋められないその深い暗闇を覗き込み、一緒に身を沈められたならどんなにいいだろう、と思ったこともある。
だけど。
それをすることはふたりのためにはならない。
また何度か首を振り、下を向きながら彼は
大きな指で自分の顔をすっぽり覆う。
ちがうんだ、
そう言うことじゃないんだよ。
悲しみと怒りと、どうしようもない虚しさと。
ちがうんだ。。
何度も何度も何度も…リフレインする。
丁寧に愛してくれた。
雨の中傘もささずにダンスをした。
トンネルの中で大声で名前を呼び合って鼻を擦り合わせて笑った。
子供みたい。
こうしていると落ち着くんだ。
耳の柔らかさと
二の腕のなめらかさ。
ベーグルのような肌感。
いつか目を覚ました部屋は音もなく降る雨で青く光り、カーテンの向こうが白く、まるで部屋自体が発光しているかのようで
何かを口にしたらその神聖さが壊れてしまうようで。
天井に伸ばした自分の腕があまりにも頼りなくて
自分のものじゃないみたいで
全てが夢のようで
そんな部屋でひとり、暮らすなんておかしくなる、と思った。
その部屋に向かうまでの道のりを
コンクリートに映る影を
踏みあいっこしては笑い
重なっては笑い
広い背中におんぶをせがんでは足をばたつかせて
その身を任せた。
イヤホンをふたりで分け合って聴く音楽も
鼻の横のホクロも
少しかすれた声も
パンに塗るバターのように
滑らかにとろける
そんな日々を贈りたかったのに。
アメリカに行く、
その一言で
世界が重ならなくなったあの日。
子どものように笑い合って
たくさん口付さんだあのメロディ、
身体の割に小さく神経質な文字を書く指や
トマトとたまごの炒めのレシピを
根気よく教えてくれた優しさや
体育座りをしながら
両親とZOOMで話す少しさみしげな声や
そんなことがちょっとずつ、
でも確実に思い出されて
影を見るとあの日をあの恋を思い出す。
ねぇ、元気にしてますか?
何度もきっとまた、首をふるだろう。
アメリカ、とはっきり発音したあの唇で。
今は誰の名前を呼んでるの?
【短編 ながく、伸びる影に。】