文章を書く、ということ。
iモードサービスが始まった1999年頃から携帯電話を使いネット上で私は文章を書いて生きてきた。
ポケットページ(愛称:ぽけぺ)と言う個人のインターネットホームページのようなものがはじまり。たぶん、ぽけぺがSNSの走りのような存在だったと記憶している。
その後そこで出会った人からmixiに招待され、更にはGREE、そしてアメブロ等次々に出てくる新しい話題のネットの【場】に自分の居場所を求めて書くことで人と繋がって来た。
一番熱く書いていたのがmixi。
日記として日々の思いや、
20代にありがちな――恋愛していたが故の悩みやポエムだとか、短編小説などもバンバン書いていた。
丁度その頃浜崎あゆみや小室哲哉プロデュースの歌手が出て来て自分で歌詞を書くことがステータスみたいな時代で、ネット上で「私はここにいるよ」「居場所を探しているよ」的な心の葛藤を書いた女子高生たちが書いた実体験や小説が何冊も本やドラマとなり爆発的に人気を博していた。
その様な時代のうねりや、ネットで交わされるまだ見ぬ人達とのやり取りに私は魅了され、
mixiで知り合った人達との交流が始まって行ったーー。
思えばあの頃は若く、
そして常に危ない橋を渡っていたなぁ、と思う。
だけど危険な場で踏み留まり、しっかりとNO!と言えたのは9人家族という私の産まれた環境にあった。
9人家族、6人キョウダイ。
だからこそ家族を悲しませるようなことはしたくなかった。
その家族構成を言うと、どこに行っても珍しがられ、芸能活動していた私は、一度オーディション番組に出たらスタッフさんに面白がられ、その日の帰りに取材に来られたこともあった。
家は横須賀でたばこ屋を営んでいて、
祖父は喘息のため戦争から帰ってきてそのまま病気が悪化し、入退院を繰り返す日々だった。
そんな祖父が弟の少年野球を見に行った時に叫んだ「ナーヌニー」と言う掛け声が弟のあだ名になった話はまたいつかしようと思う。
そんな祖父を支えながらもたばこ屋を切り盛りし、常に女性であることを忘れない、かわいいおばあちゃんが私は、大好きだった。
おばあちゃんはお店に出る前に必ず、頬に紅をさす。爪にもマニキュアを塗り、祖父が亡くなった後も指に金色の結婚指輪を大事そうにつけていたっけ。
時折熱を出し寝込んだ私の二段ベッドにやってきて――キョウダイの多かった私は妹と同じ「女部屋」で二段ベッドの上で寝ていた。
熱でうなされ苦しく寝てると心配して来てくれた、しわしわのおばあちゃんの手が不意におでこに当たるーーその外から来た匂い、ひんやりした手のひら、そして「あさみ、大丈夫かい」と聞く優しい声に、大丈夫じゃないのにうん、と言ってしまうあの感じ。。思い出すときゅっ、と胸が痛くなる。
おばあちゃん。
今は94歳で痴呆症になり、だんだん私のこともわからなくなってきていて。。
もうあの「大丈夫かい?」が聞けないことに愕然とする。あの頃より一回り小さくなった体を擦ると、よく来たねぇ、とニコニコし、澄んだ目で私を見る。その目は私を私と認識しているのか?わからない。
おばあちゃん。何度も何度もそこにいるのに呼んでしまう。
おばあちゃんは常に子供を育てていた母に変わり、私を見てくれた特別な存在だった。
みんなにはナイショだよ、とお店のお金を取り出し100円玉をくれてアイスでも買ってきな、と
いたずらっぽく笑う姿や、お出かけするとき口を窄めて口紅を塗る姿や、たばこ屋さーんと呼ばれてトイレに入りながらも大きい声ではーーーい!!と返事する姿も私はずっと覚えてる。
おじいちゃんとおばあちゃんのことも良くmixiやFacebookに書いていたっけ。
私はこうして常に「書く」ことで
家族や大切な人の思い出を残すようにしている。
文章を、書くということ。
それは私にとって、記憶の整理とともに自分の中の感情や見ていた景色、そしてそれを誰かと共有し共感してもらいたいとの願いでもある。
難しい文法や文章の成り立ちや、どこをどうしたらもっと良くなるか、なんて考えないで書く。
書いてしまう。
誰のためでもなく、
頭が、心が文字で溢れかえるから
それを指で吐き出す。
それを今後はここで、書いていこうと思う。
パソコンは苦手なので常にスマホから。
3年ほど前から書いているアメブロは写真を入れたり文字を大きくしたり、カラフルに絵文字も入れたりしているけれど、こちらは「文字だけ」で好きに表現してみようと思う。
SNSやアメブロだとつい改行もしたくなるけれど、ある程度はこの「note」だからこその表現として長めに文章を綴って楽しみたい。
そう、誰かに好かれようと
媚びようと書く気はなくて、思うがままに綴る。
それを読みたいと思ってくれる方がいるのなら。
私は幸せです。
どうぞ、このあとはご自由に。
また、書きます。
國木あさみ