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読書レポ|きみのお金は誰のため
今年の7月にオーディオブックで聴き、感銘を受けた本。
もっと理解を深めたいと思い、紙の書籍でもう一度読んでみました。
「経済」についての誤解
経済とは経世済民(世をおさめて民を救う)の略語であることを初めて知りました。
「本来、経済はみんなが協力して働いて、みんなが幸せになることなんや」と物語の中のボスは説きます。
経済とは、お金を稼ぐことでも、お金を増やすことでもない。これまで僕は完全に”お金の奴隷”の文脈で経済を理解していました。
お金で解決できる問題はない
お金自体が問題を解決しているのではなく、お金を受け取る人々の労働によって問題を解決している。
はたらくことは価値を提供すること。働くことによって得られたお金を使って、誰かに価値を提供してもらう。
つまり、お金は移動しているだけで、全体のお金は増減していない。
言われてみればなるほどその通りなのですが、今まで、お金があればたいていの問題は解決できると考えていた自分が恥ずかしくなりました。
どれだけお金があっても、働いてくれる人が存在しなければ、お金自体では問題は解決しません。
もし砂漠の真ん中でおにぎりを食べたいと思っても、お米がなければ食べられません。
さらに、そのお米だって農家だけでは作れません。トラクターを作る人がいて、精米機を作る人がいて、お米を入れる袋を作る人がいて、お米を運ぶ人がいて、運ぶためのトラックを・・・と日本国内にとどまらず数えきれない人たちの仕事によって、ようやく目の前に届くのです。
僕が支払ったお金は、それらすべての人たちに分配されているのです。そのどこかが欠けたら、おにぎりは食べられないかもしれません。
もし一人ひとりが自分のところにお金を貯めようとしたら、仕事を通じてお互いを助け合うという経済が回らなくなり、全員が孤立することになります。そしておそらく生きていくことが出来なくなるでしょう。
お金は贈与のための道具
交換は、お互いが”ほしい”が合致したときにのみ成立します。お金という道具がなかったら、”ほしい”を合致させるのは至難の業です。
ブドウ農家のおじいさんに、「私が持っている最新型のハイスペックパソコンとブドウを交換してください」と言っても、おじいさんがパソコンをつかえなければ、この交換は成立しません。
しかし、お金という道具があれば、パソコンを売って、そのお金でブドウを購入することができます。
神の視座でみる、お金のしあわせな使い方・受け取り方
お金を自分の給料や家計という視点でしか捉えていなかった僕の視座を、何段も上にもちあげてくれる本でした。
お金はどういう役割を果たしているのか。
お金によってできることは何なのか。
ということを、地球の外側から考えられるようになりました。
僕の場合は、お金を受け取ることに対してまだ心理的なハードルがあります。
それは自分の仕事の価値に自信がないからなのかもしれません。もっといえば、自分自身の価値に自信がないからかもしれません。
この点については、僕はもっともっと学ばなければいけないでしょう。
誰かの成功やしあわせを心から願い(本の中では”人を愛すること”と言っていました)、そのために本気で価値提供しようと考えたとき、お金を受け取るハードルは今より少し低くなるかもしれません。
引き続き、お金の受け取り方と使い方を学んでいきます。
めでたしめでたし
立崎直樹
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