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【雑記】2022/06/14(〈肉〉、〈意識〉、〈鏡〉)

私たちの生活は、〈肉〉と〈意識〉に挟まれた〈鏡〉でできている。
〈肉〉とは、たとえば脳のように、人間をメタ的に捉えるものである。
〈肉〉と〈意識〉は互いに捕縛しあい、宙吊りになり、〈意識〉から〈肉〉へと向かう捕縛は、〈肉〉を虚無として掴むことになる。このことを虚縛と呼ぼう。なぜ〈意識〉は〈肉〉を虚縛してしまうのか。それは、〈肉〉の場が、たとえば言葉の場であるためである。言葉の場において、言葉以外のものを語ることは、到底難しい。かろうじて示し得たものは、〈肉〉の肉化作用によって、〈意識〉ではなくなる。しかし、それによって〈意識〉が断絶されることはない。あくまでも、〈意識〉は〈肉〉を虚縛、捉えながらも虚ろの状態にあるのである。
そして、この図式化は、左項が〈意識〉、右項が〈肉〉として、生と死、自己と他者、主体(的)自己と客体(的)自己、現実(様態)と現象についても同様のことがいえる。また、この羅列は、左に行くほど実際性-的に、右に行くほど現実性-的になる。
たとえば生と死なら、生は死を虚縛し、死は生を規定する。このとき、生は死に対して徹底的に受動的である。主体性、つまりは視点が生の側にあるために、私は鏡像(死)の動きに捕縛されている、ということが確認できてしまうためである。このあたかも能動的な確認の作用のために、〈意識〉は〈肉〉に”敗北”(存在否定はされないが、価値の存在を否定される)してしまうのである。
では、このとき、〈意識〉を救い出すような方法はあるのか。それは、主体性の確認作用によって、”不在の存在”である〈鏡〉を発見することである。〈鏡〉とは、〈意識〉(〈肉〉とは〈意識〉である)と〈肉〉(〈意識〉とは〈肉〉である)の間に渡る、屹立する繋辞(~である)である。
このとき、〈鏡〉とは、〈意識〉でも〈肉〉でもない、その0のあわいに滑り込む、ひとつの不在となる。〈鏡〉とは純粋存在であるために、矛盾はそこにあり得ない。そして、その〈鏡〉、〈意識〉と〈肉〉を矛盾的かつ”非矛盾に”接着する〈鏡〉の存在に、実存を見出すことこそが、私は〈意識〉と〈肉〉の相互捕縛、相互規定、相互宙吊から救い出す一筋の光と見る。

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