スミマセン (巻頭エッセイ) ニイ・パークス(ガーナ)
COMPILATION of AFRICAN SHORT STORIES
アフリカ短編小説集 もくじ
++++
わたしの育ったアクラでは、身のまわりに日本のあれやこれやがたくさん転がっていた。それはわたしたちの生活の一部となっていた。奇妙なことに、わたしたちはこの繋がりようにそれほど気をとめず、ごく当たり前のことと受けとめていた。
(アクラはガーナの首都)
北カネシエにある学校からの帰り道、よく友だちのエムの家に寄って、母親秘蔵の第二次世界大戦もののコミックを借りて読んでいた。それは鮮烈な線で描かれたモノクロの漫画で、第二次世界大戦の戦闘を連合軍兵士の視点で捉えたものだった。ドイツの兵士は哀れんで描かれることがあったのに対して、日本の兵士(主にパイロット)はそうではなかった。この飛行士たちは死を恐れない人間、とステレオタイプに受けとめられていた。「神風」という言葉を知ったのは、このときのコミックからだった。これが「日本人は死を恐れない」という印象に結びついた。
学校を抜け出して映画を見るようになってこの印象はさらに強まった。近所の家の玄関前にポンコツ映写機が置かれ、そこが仮の映画館となった。スクリーンの中のサニー千葉を見るために、わたしたちはこぞって乗り込み、命知らずの戦いに挑むのだった。
(サニー千葉とは俳優の千葉真一のこと)
当然ながら、テクノロジーは猛烈なスピードで進歩し、『カラテ・キッド(ベスト・キッド)』のノリユキ・モリタを知る頃には、友だちの家のVHSやベータマックスで映画を見ていた。映画に出てくる型を(前屈立ちと後屈立ちを区別して)少し広いところで真似するのだ(わたしは松涛館空手も数ヶ月ほど習った)。わたしたちはソニーとJVC(日本ビクター)の間の市場争奪戦の波にもまれ、映画を見る手段を日々変化させながら、日本の技術を使っていたわけだ。さらに重要なことは、こういったビデオ技術のおかげで、もっと広い範囲のスタイルの作品を見る窓が開かれたこと。アニメが暮らしの中に入りこみ、物語を語る方法が変わっていったのは、この窓によるものだった。
最近、ツイッター(X)で、アニメの影響を受けたアフリカの作家について、質問をしてみた。返ってきた答えには、はっきりとした傾向が見えた。若い作家たちは、日本のアニメが作家としての成長に貴重な役割を果たしたことに自覚的だった。たとえばガーナの若い作家、オードリー・オブオビサ=ダルコは、宮崎駿が自分の作品にいかに影響を与えているかを語った。また2020年英連邦短編小説賞の最終候補になったガンビアの作家、ML.ケジェラはこう表明している。「アニメはわたしがどのように書くかの基本となっている。中でも今敏(こんさとし)の作品から影響を受けた」
(英連邦短編小説賞=Commonwealth Short Story Prize)
わたしの質問への回答以外にも、2024年3月1日の鳥山明の死に対して、アフリカ大陸全域にわたる何千人ものファンからの悼む声を(SNSで)見つけた。
実際のところ、ガーナ系英国人の作家、ジュード・ブレイ・ヨーソン(世界的ラップの大スターであるスチームジーの自伝の共著者)は、2020年10月に次のように書いている。「鳥山明のドラゴンボール Zのストーリーを書くことが、将来の夢であり目標だった」 ヨーソンは鳥山明の死に触れ、ツイッター(X)にこう記している。「鳥山明は、作家としてのわたしの最初のヒーローだった。ドラゴンボールがあったから、作品を書きはじめた。わたしは『ドラゴンボール Z』のごく短い映像を、GIFやスプライトを使ってパワーポイントやウィンドウズ・ムービーメイカーで作っていた。11歳か12歳の頃、そうやってわたしは『書きはじめた』んだ。それからファン・フィクションを読んだり、書いたりすることを始めた」
(ファン・フィクション=パロディ版の同人小説、二次創作小説)
それ以外の作家たち、たとえばナイジェリアのハンヌ・アフェレはアニメ作品を実際に作っている。ノーベル賞作家のウォーレ・ショインカの80歳の誕生日を祝ったコミックブック『The Adventures of Captain Blud』の、アニメ版の脚本を担当した。ショインカは英語で作品を発表した草分け的なアフリカ人作家の一人。彼の物語とアニメが重なり合い、見事な円が描かれた瞬間だった。
わたしのような少し年長の作家にとっては、西洋のコミックブックやアクション映画、空手、テクノロジーといったものが、創作との繋がりの根っこにあるのだが、そういったものもまだ存在はしている。こういった影響の他に、ガーナで地理の時間に学んだ、日本の実態・実像についてのリアルな感覚があった。イギリスで大学に通うようになるまで、その教育レベルが西側社会と同じではないということを知らなかった。マンチェスターにいたとき、日本からの留学生が一人いて、わたしが彼女にどの島で育ったんですか、と訊くとびっくりされた。「6年間イギリスにいるけど、そんなこと質問した人はいなかったわね」と言われた。中学時代、わたしはホッカイドウ、ホンシュウ、シコク、キュウシュウと頭の中で歌っていたし、離島のことも知っていた。その知識のおかげで、2009年にオーストリアで、山口さんという日本語類語辞典を編纂した人とも友だちになれた。
わたし自身の家族内でも、創作や表現といった抽象的事象を超えて、食べものや本にまつわる具体的な出来事があった。あるとき父が大前研一の『ボーダーレス・ワールド』という本を買ってきた(1990年、父の死の3年前のことだった)。家にやってきた本はみな回し読みされる習慣に従って、わたしも読み、兄もそれを読んだ。この本を読むことで、わたしたちの日本に対する見方が少し変わった。兄は日本文化の崇拝者となり、その後のフランス留学中に日本語のレッスンを受けている。そしてわたしに「すみません」という言葉を教えてくれた。
わたしはその言葉に魅了された。なぜなら言葉に複数の意味があることは、世界で最も素晴らしいことだから。このエッセイのタイトルにそれを選んだのは、「こんにちは、読んでくれてありがとう」と読む人に伝えたいからなのだが、それだけでなく、わたしたちの元に届いた物語、それがわたしたちと共にまた運ばれていく、その多様な道筋を暗示しているからだ。
「運ぶ」ことから思いつくのは、そしてこのエッセイの締めとして書いておきたいのは、「白昼夢のプロである」アフリカ育ちの多くの作家にとって、バスに乗っているとき、車窓の波打つ風景を眺め、心安らぐ街の喧騒、人々の会話や車が行き交う不協和音のただ中にいるとき、わたしたちを「運んでくれて」いたのは、世界の至るところで製造されていたトヨタ、いすゞ、ニッサン、三菱、日野といった日本製のバスだったということ。
ウガンダの作家、モニカ・アラク・デ・ニェコの小説『キトグンのクリスマス』はこのように始まる。「サンタはいつか、キトグンを離れるだろうとわかっていた。ただそれがいつなのか、知らなかった。わかっていたのは、その日が来たら、彼女はムクウィニからキトグンの町のバスターミナルへと、20キロの旅をするということだった」 サンタが町を出るために乗ったバスは、日本製だったに違いない、そう思う。
だからこの文の最後に思うのは、わたしたちの物語のいくつかは、日本の車両設計者、溶接工、型枠工、塗装工、ガラス切断工、内装業者、営業マンの努力と激務なしには、読者のみなさんに届くことはなかったかもしれない、ということ。あらゆる物語はこうして分離不可能に結びついている。わたしたちこそが、ボーダーレスの世界だ。
*「スミマセン」は【新世代作家が描く小説のいま】From Africa!!! のために、ニイ・アイクエイ・パークスが書き下ろしたエッセイです。
訳:だいこくかずえ
Title image from the book cover of "Dragon Ball, Vol. 1: The Monkey King" (Dragon Ball: Shonen Jump Graphic Novel) (English Edition)