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[エストニアの小説] #3 流れ者 (全10回)
夜、そして次の朝、さらなる筏が二つ、三つ通過した。
「右だ、左を押すんだ! 流れに乗れ!」 別の声が聞こえてきたが、ほんの一瞬のこと、すぐに川を下っていってしまった。この春、筏乗りたちは歌っていない、ふざけてもいない、騎手のように急いで通り過ぎるだけ。みんな厳しい顔つきで仕事一辺倒、ハバハンネス農場のことなど意に介していないようだった。ロキは筏乗りたちの声にまったく聞き覚えがなかった。みんな見知らぬ者ばかり、ここを以前に通ったことのない人たちだった。
「とうさん、みんなすごく急いでいるよ」とロキは声をあげた。
「そうだ、ロキ、そうなんだ」 クディシームは喜びと満足感を娘に隠すことができず、笑みを浮かべている。
「なんであんなに急いでるの?」 ロキが訊く。
「わからん。おそらくそういう気分なんだろな。あいつらの仕事や行動などわからん」とクディシーム。
その日の午後、別の筏が通り、それで終わった。最後の筏も、前の筏を追うように急ぎ足で通り過ぎた。
川の曲がりくねったところで、ウワミズザクラが姿を見せ、サンカノゴイとウソが姿を現し、花々がまだら模様に樹冠を覆っている。夕方になると蚊がブンブンといい、草地や苔のところはたくさんの虫で溢れた。それでもロキの気が晴れることはなく、ただ歩きまわる。ロキは悲しい気分で、黙ったままだ。今年の春はなんと速く行き過ぎることか、信じられない速さだ、とロキは思う。筏乗りたちの笑い声さえ聞こえず、顔を見ることもない。川の流れは彼らを旋風みたいに運び去る。そうなると、もう待つものは何もない。夏も、一瞬のうちに過ぎ去るだろう。そして冷たい風が吹き、また氷に覆われる。日々の暮らしは何も起きることなく過ぎていき、ただ森がからだを揺らしつづけるだけ。突然、ロキは自分が、そしてこの木に覆われた迷宮のような土地に惹かれ身を置いている父親が、言いようもなく悲しい存在だと思う。
ところがその2、3日後、さらなる筏が現れた。
乗っているのは男一人。ロキは遠くから見ていて、その男は不器用で、筏をうまく流れに乗せられていないことに気づいた。こっちの岸辺からあっちの岸辺へと流され、ときにアシに突っ込んで捕まりと、速く筏を走らせることなど考えていないように見えた。その男は手で操作することなく、ただ流れに身をまかせていた。丸太の後部はときに水の中に浸かり、筏はコマのようにくるくると回った。それでも男は暴れ馬に乗っているかのように、筏に寝そべっていた。ハバハンネス農園のところでは、ブラックリバーが大きく曲がっているため、筏は土手に打ち上げられるのだが、男は静かに寝そべったままである。
ロキは長いことその男をじっと見ていた。好奇心を抑えることができない。
あの人は病気なのだろうか? 筏を操る力がないのだろうか? それとも何か悪いことが起きているのだろうか?
ロキは父親のもとへ走っていく。
「来て、来て」 ロキは興奮して声をあげる。「筏乗りが大変だよ。土手に打ち上げられてる。助けが必要なんだ」
クディシーム爺は咳払いすると、娘の方を面倒くさそうに見た。しかしロキは栗のいがのように父親にくっつき、川まで引きずっていった。
二人が筏乗りのところに到着すると、男は土手にすわって口笛を吹きながら、楽しそうにツィターを奏でている。
「な、なんか事故でもあったんかい?」 シルベル・クディシームはどもりどもり訊く。「先に進みたいのに、筏を川に戻せないってわけかい?」
「いや」 その男はにっこり笑って答える。「神様にはたくさんの時間がある、そしてわたしはそれ以上に時間があるんだ」
太陽が赤く染まった森の後ろに沈んでいく。ノコギリの歯のような雲の縁が燃えている。男は太陽のある北西の方に顔を向けた。
男は帽子をとると、こう言う。「失礼しました。わたしは筏乗りです。トーマス・ニペルナーティと言います。わたしがここで足を止めると、あなたがたに迷惑をかけるかもしれません。でも夜まで筏を走らせる気分じゃないんです」
「変な男だ、なんて変なやつなんだ」 クディシーム爺は家に戻りながらブツブツと言う。
シマアジが川の回路になったところをまわりはじめた。アカエリヒレアシシギの悲しげな声が、沼地の方から聞こえてくる。夜がやって来て、暗い空に星が灯る。風はとまり、息を潜めて喘ぐ。藪木は頭を垂れた。川のうなりと鳥たちの熱く激しい鳴き声が聞こえてくる。官能を誘う樹液に浸され、大地が樹木や花々の顔を天に向けさせると、開花への欲望が森の空気を毒の芳香で満たした。コオロギが羽を合わせ、カブトムシは鼻歌をうたい、森と草原はマヒワのさえずりに満たされる。
トーマス・ニペルナーティは筏の上に横になり、空を見つめ、夜の声に耳を澄ます。黒い雲の隊列が、南西からやって来て急ぎ足で森を越えていった。しかし雲は空高く上っていくと、バラバラになって煙のように消えていく。頭上で鎌が輝いた。天の川が光を発して煌めいた。男はじっと動かない。どの音も聞き逃すまいと、まるで鳥たちと一心同体になっているように耳を傾ける。真夜中になって、鳥たちの声が静まると、男はツィターを取り出し奏で始めた。この男には、忘れ去られた昔の歌(メイ・ローズやローザムンデが塔に閉じ込められて苦しんだときの歌、ゲノフェーファが愛に敗れてうたった歌)の膨大なレパートリーがあった。歌の中で最も悲しい部分に差しかかると、歌詞を唱えず、ハミングをし、心動かされてその大きな目に涙をためた。
'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku