[エストニアの小説] #6 ニペルナーティ (全10回)
ニペルナーティはロキの手をとるとこう言った。「可愛そうな子だ、きみはここでいつもどうやって過ごしてたんだい? 冬、風がヒューヒューと森を渡っていけば、きみの小屋は最初の一吹きで壊れてしまう。森や沼が氷で覆われて、オオカミや腹の減ったカラスくらいしか歩いてないときに、ここにいて退屈しないのかい? それに友だちとか誰もそばにいないだろ、父さんだけだ。父さんは若い子の茶目っ気や面白いことをわかってくれないよね。きみは野原の真ん中の1本の木みたいに生きてる。誰もきみの枝に手を伸ばすことがない。きみは柔らかな手と暖かな心をもってるけど、それは自分のためだけにあって、他の人に見せることができない。あー、ロキ、わたしがここに移ってくるのがいいのかもしれない、きみの友だちとして、仲間としてね」
「きみはわたしと旅だってできるし、誰も見たことのない世界をきみに見せることだってできる。この世界には悪いこと、嫌なことがあるのは本当だ。嘘や罪深いことや欲望に満ちている。でもわたしの考えでは、ロキになぜそれを見せる必要がある? きみには無垢のままでいてほしい、きみに噛みついたり、痛みを与えたりしない、この森から生まれる夢の中でね」
「いいかな。どうしてこんな話をするか?」 ニペルナーティは厳しく冷たい態度をとろうとしたものの、それ以上言葉が出てこない。ロキは一度も目をあげなかった。心を揺さぶられ、震えていた。これまで誰一人、こんな風にロキに話しかけてきた人はいなかった。
シルベル・クディシームが戻ってきて、肩から銃をおろし、不平を言いはじめた。「何も見えない、見えないんだ、目が利かない。こんな風では鳥一匹つかまえられん」
「ちょっと待って」とニペルナーティが笑顔で言った。「あなたがよければ、わたしが行きましょう」
ところがニペルナーティが銃を手に外に出ると、ロキが懐中時計のチェーンみたいにズルズルとついてきた。
この男はその日も、次の日も出ていかなかった。そして突然思いついたように、あれやこれやと雑用に手をつけはじめた。朝から夜遅くまで、クディシームの小屋の修理に熱中した。屋根を直し、垂木や梁を付け替えた。またかまどの修理もした。クディシームはじっと見守っていたが、口は出さなかった。
「幸先が良くなさそうだ」 ニペルナーティは独りごとを言った。「まったく、幸先が良くない」 ニペルナーティはロキをそばに呼んで、心配そうに頭を振った。そしてこの筏乗りに何ができると思うか、ロキに訊いてきた。ロキはただ笑って肩をすくめた。
ところが夜になると、ニペルナーティはツィターを持って川へと走り、歌をうたい、ツィターを弾いてロキに話しかけた。
「わかるかな、ロキ」とニペルナーティ。「可愛い女の子がまともな小屋をもっていれば、一人で長く暮らすことができる。落ち着くことができるだろう。もし誰もここに来たいと思わなければ、わたしが川や海で筏を走らせて、人に出会うごとに、魔法にかかった王女様みたいに森の中で暮らしている小さなロキのことを話すよ。そしてこう言う。ロキという子は、濡れた大地みたいな黒い目をもち、夜明けの空みたいなバラ色の頬をしていて、風で揺れる森みたいな髪を肩に垂らしている、とね。そしてロキの肩はと言えば、白い帆みたいで、そのくちびるは太陽と風しか中をのぞけない、高い壁に囲まれたバラの園みたいだ。そしてこう付け加える。幸福は消え去る雲みたいなもの、蕾が開いたと思ったらすぐに萎れてしまう花のようなもの。だから急がなくては、そうしないと手遅れになってしまう、わたしがそうだったように!」
ニペルナーティの目は輝き、声は震えていた。ツィターを手放すと、ロキの手をつかんで、熱に浮かされたように言葉をつづけた。
「ロキ、きみの小屋のそばに筏をとめたことを許してほしい。だけどきみはニシコウライウグイスがどんな風にさえずってるか、ウソが口笛みたいな声をあげているか、ナイチンゲールがどれほど正気をなくしているか、自分の耳で聞くことができる。自分の目で、1本1本の木を、あらゆる藪木を、すべての花を、そして花を咲かせたいと渇望する藁さえ見ることができる。そしてわたしはきみを見た。天の神よ! 春に森でライチョウがおしゃべりするのを聞いて、春の土が誕生の喜びで湯気をあげるのを見て、きみはもう正気ではいられない。大地の鼓動を感じている」
「いやもういい」と突然口を閉じる男。「すべてを言う必要などないね」
「あたしを連れていって!」 ロキの口から言葉がこぼれた。
ニペルナーティは何かに刺されたように飛び上がった。
「ロキ、わたしと一緒に行きたいのかい?」 あっけにとられて声をあげた。「きみはもし、わたしの話したグラバーの話が作り事だったとしても、一緒に来たいのかい? そうなんだよ、実はそうなんだ、可愛いロキ。わたしの家にたくさんのグラバーなどいない。なんでそんなことをきみに話したのか、自分がわからない。だけどバカなことをしたのは確かだ。わたしが持っているのは一羽のオウムと一匹のグラバー、それだけだ。でもこのグラバーはとても年とっていて、あまりにすすけているから、それがグラバーなのか、ただの古い箒なのかわからないことがある。あー、神様、許してください、ロキ、また今うそを言ってしまった。オウムも、すすけたグラバーもいないんだ。ただの箒があるだけなんだ。他に何ももってない、何であれもってないんだ。コジキにやるものさえ持ってないことを、恥ずかしいと思うことがある。そいつは歌をうたって手を差し出す。だけど歌に報いるものがないんだ。だからそこを急いで通り過ぎる、具合の悪い人みたいに。そしてアリンコが背中を行ったり来たりしているみたいに感じる。ポケットを縫いつけてしまうこともあるんだ。そこに入れるものがないからね」
「あたしを連れてって!」 ロキがすがるように繰り返した。
「じゃあ、きみはまだわたしと一緒に来たいのかい?」 ニペルナーティは信じられないというように訊き返した。
ニペルナーティはロキの隣りにすわると、微笑んでロキの頭をなでた。その手は震えていた。
「わかってるの」 ロキは言った。「ここにいるべきだって。もしあたしが父さんを置いていったら、きっと死んでしまう。でももしあなたが行ってしまったら、もう二度と会えないんじゃないかって。これまで、あたしは筏乗りたちが行き過ぎていくのしか見たことがなかった、誰ひとり次の年に戻ってはこなかった。川の土手に灰の跡と焦げた丸太があるだけ」
「わかるかな、ロキ?」 ニペルナーティは楽しげに声をあげた。「実は、わたしは筏乗りじゃない。それにこの貧しさについても疑わしい。本当だ、正直に言えば、チョッキを10着持ってるわけじゃないし、チョッキのポケットに100万入れているわけじゃない。でもあれやこれやと持ってるんだ。うーん、まあ、そう悪いもんでもないよ。ちゃんと探せば、物は見つかる。ロキ、ロキ、これがわたしが考えることだ。わたしときみで、父さんの面倒をちょっとみなくちゃならないね。年とっていて弱っているからね、もうあまり残された日もないし。そういうことをうまくやっていけるんじゃないかな。わたしが筏で海に出て、ユダヤ人から賃金を得て、ここに戻ってくる」
夜が深まった。カッコウがどこかで鳴きつづけていた。水場の上をコウモリが飛びまわっていた。クディシームの止まらない咳が小屋から聞こえてくる。
'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku