
英語 → 日本語で起きる様々な不具合。英文はなぜ、あんなに段落が長いのか?!
アフリカ出自・在住の作家たちの作品を翻訳していて、英語のテキストと日本語のテキストの違いについて、改めて注目しています。
ガーナの作家ニイ・パークスの巻頭エッセイを訳していたとき、パラグラフ(段落)の取り方の(日本語との)違いに気づいたのがきっかけでした。
と、ここまで書いて、上の二つの段落は英語のテキストであれば、間違いなく一つの段落に収まるはず、と。しかしわたしは二つに分けました。一つにはネットの記事は、(日本では)なるべく段落を短くすることが推奨されているから(noteの書き方マニュアルにもそうあった記憶が)、それに則ってみたこと、そしてその理由は多くの(日本語の)人が記事をスマホで読んでいるからです。
確かに、スマホで長い長いどこまでも続くような段落の文章を読むことは、あまり快適ではないと思います。一文が短い簡潔な文章、そのまとまりである段落が1行空けでキビキビと進むテキストの方が、スマホの幅狭な表示には合っているし、読む人の時間や場所の感覚にもフィットしやすいでしょうね。
で、日本語の文章をオリジナルで書くときは、このような点を考えつつ、自分の書き方でやっていけばいい。が、英語のテキストを翻訳する場合は、ときに困ったことになります。もし原文通りの段落に沿って日本語を書こうとすれば。
一般的に英語のテキストは、新聞の記事でも、小説でも、エッセイでも、段落が長いものがよくあります。ときに、(本の場合)数ページにわたって一つの段落ということもあります。
英語のテキストでいうところのparagraphは、一つの考えやテーマなど意味のまとまりで出来ているようです。なのでその考えなりテーマが継続する限り、たとえ長くなっても段落は変えずに進んでいきます。
それに対して、日本語のテキストの段落は、必ずしも意味のまとまりというわけでなく、「息継ぎ」みたいなもの。長い段落は読むのに疲れる、という前提のもと(おそらく)、長く続きそうだったら、適当な箇所で「この辺で一息いれて、改行するか」となります。
一つのテーマや考えが続いていれば、段落の長さにはこだわらずそのまま続ける、というのが英語テキストでは理解しやすい文章、なのだと思います。それは文章がもともと、論理によって組み立てられていることが多く、というか英語そのものが論理的な傾向のある言語だからかもしれません。何かひとこと言えば、そのあとにbecauseと続くことは多々あります。
おそらくその意味のまとまりで出来ている段落を、息が苦しくなったからと言って分断すると、英語話者にとっては理解しにくい文章になってしまうのかもしれません。
日本語のテキストは、たとえ一つの意味のまとまりであっても、ずらずらとあるいは滔々(とうとう)と文を続けられると、息が続かない感じになる、あるいは途中で理解が進まなくなることがあります。
冒頭に書いたニイ・パークスのエッセイですが、翻訳をする際、読みやすくするために原文の段落を分けたい、という気持ちが起きました。そもそも英語でいうところの「essay」と日本語でいう「エッセイ」はかなり違ったものなのですが。
いまわたしが書いているこの文章は、英語的にいうとessayではないと思います。英語でいうところのessayとは、研究論文の書き方に近いもので、論理によって構成され、展開されるものです。日本語で書かれる修士・博士論文も、この英語の様式とフォーマットに則っています。
なので英語のエッセイにとって、段落の意味は重要で、論理の展開は段落によって進められているとも言えます。
ところが日本語でいうエッセイの方は、日記や作文に近いもので、ある日の出来事や気分を綴ったものだったり、何かテーマがある場合も、自分の考えを説明し主張するというより、やんわり伝えたい、わかってもらえたら嬉しいみたいな感じじゃないでしょうか(「エッセイ」と言ったときのイメージです)。なので疲れないように、適度に段落を分けて、サクサクとテンポよく読めるように書くのがベスト、かも。
この日英のエッセイの違いは、英語で書く人はたいてい知らないので、説明が大変です。英語のエッセイを日本語に翻訳する場合、原文に忠実に意味のまとまりで英文同様の段落をつけるのがいいのか、それとも日本の読者のことを念頭に、日本語的な段落で適宜、息継ぎを入れながら訳すのがいいのか。
わたしは今回、巻頭エッセイ「スミマセン」を訳す際、作者のニイ・パークスに段落を切ってもいいか、許可を求めました。1000ワードを少し超えたそれほど長くはない英語原文(日本語では約3000字)に、あらたな段落を8つ加えています。元のテキストは段落は6つでした。かなりの改変なので、ニイにはもし納得がいかなければ、原文通りの段落にすると断った上でのお願いでした。(英語の原文のどこに新しい段落を加えるか記して、尋ねました)
英語圏以外にも留学経験のある彼は、かまわない、と返事してきました。言語によって、違うことはたくさんあるからね、と。それで現在の日本語訳はわたしの入れた段落バージョンになっています。ニイには、もし英語の原文をどこかで発表することがあった場合は、元々の段落がベストだと思うとは伝えました。(そういえば、未出版の書き下ろし原稿を訳したのは、今回が初めてでした)
たかが段落分け、と思うかもしれませんが、段落をどう処理するかは、翻訳する上での肝である、ということにも今回気づかされました。英米文学の人気翻訳家として知られる柴田元幸さんは、段落には手を加えないそうです。そこをいじると翻訳の自由度が際限なく拡大しそうで不安、というようなことを発言しているようでした。
実は今回の巻頭エッセイ翻訳で、1カ所だけですが、段落を切るだけでなく、一つの文章を切った上で、その切った箇所から新たな段落にする、ということをしました。それはその文章が複数の関係詞・接続詞で繋がれた長い文だったことがあり、四つ目の関係詞の前で文を切り、さらにそこで改行したのです。これはさすがに普通あまりやらないことかな、と思います。この四つ目の関係詞の後につづく(関係詞・接続詞で繋がれた)三つの文が素晴らしく、またエッセイのタイトルに結びつく内容で、ここを際立たせたい(コピーライター的な発想かもしれませんが)気持ちがありました。そしてニイはこれに対してもOKを出してくれました。
原文と違う段落分け、翻訳の仕方はまったくないというわけでもなさそうです。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の新旧の翻訳を見比べてみると、段落の付け方に大きな変更が加えられているのがわかります。
『カラマーゾフの兄弟 1』(亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、2012年)と『カラマーゾフの兄弟 上巻』(山本省三郎訳、角川文庫、1968年)を比べると、第一編の1が、新版では17箇所段落があるのに対して、旧版ではたった4つの段落になっています。旧版は原文どおりと思われ、英語版も同様になっていました。
新訳に段落が多いのは読みやすさのためだと思われます。実際のところ、確かに読みやすいです。Amazonのレビューでも新版についてそう書いている人が何人かいました。一方で何か(ドストエフスキーのわかりにくさの魅力)が、失われてしまったと感じる人もいました。読みやすさを取るのは、より多くの人のことを念頭に置いているということでしょうか。
ある人の記事に、池波正太郎の小説の改行の多さについて、「優れた書き手というのは自分と読者の関係のなかで段落をつくっていく」(井上ひさし『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』)という引用がありました。そうか、日本語の書き手は、読者との距離を計りながら文章を書き、段落をつけている。それに対して(おそらく)英語の書き手は自分の主張を優先順位の一番に置いた上で、読者のことを考えて書く、そういうことかもしれない。
これは文章を書くときだけでなく、日本人はまわりの人をまず意識し感じた上で、自分の行動を決め、発言するのが多いことと似ているように思います。英語圏の人はまず自分の主張をいかに他の人に伝えるか、そこに重点が置かれていて、結果としてそれがどう受けとめられるかは後の話、という風に感じます。すべてではないですが。
それが段落をどう扱うか、にも影響しているとか?
アメリカの友人にこの話をしたら、「対象となるオーディエンスが読みやすいようにするのがいい。原語の読者のことを考えて訳す必要はない」と言われました。ひょえーっ。
またその人は音楽家へのインタビューの経験から、作曲家の多くは、「自分の作品はひとたび世に出て演奏されたら、演奏家のものになる」と答えていると言います。作品は独り立ちした子どもと同じで、子どもは自分の人生を生きるもの、と。あれ、日本ではどうだっけ?
翻訳の場合は、演奏家とは違うので自分のものにはならないが、作家が伝えたいことを、対象となる読者に伝えるために最大限手助けする、ということかなとも、その友人は言っていました。
さて、今後の翻訳、どう舵をとっていこうかな。日本の翻訳の世界でも、いまは昔のように厳格な「原文に忠実」説は、必ずしも支持されなくなっているようです。対象となる読者を念頭に(その中には読書端末の種類も入る)、翻訳をしていく、この方向は多分間違いではないでしょう。
その対象となる読者といったときも、「読みやすさ」に関して、ライトノベルが好きな人と、古典や海外作品を含めた文芸ものを主に読む人では、大きな違いがありそうです。
来月公開の「織る:Weaving」(ウガンダの作家、イボンヌ・クシーマ著)は、トマシーナという女の子がだらだらと、自分の置かれた新しい環境に対して、不平不満をしゃべり続けるスタイルの作品で、こういうものはちょっと切れないかも、、、? と思っています。エッセイと小説とは違う扱いが必要、そのようにも感じます。
さて、どうなることか。著者と相談しながらの作業になるでしょう、多分。
次回作品の内容についてちょっとだけいうと、前回につづいてまた「女の子の妊娠問題」が出てきます。偶然ではありますが。いやこれって世界の重大トピックの一つなんでしょうかね、今の。
*ここで書いたようなことを、アフリカの8人の作家とキュレーターのニイ・パークスに同胞メールで送りました。今後プロジェクトを進めていく上で理解の助けになるように、というのと、こういう機会に日本語の文化について知ってほしいということで書きました。
*ところがです、このあと、小山田浩子さんの小説を読み返していたら、、、、段落が長い。。。芥川賞受賞作の『穴』、それ以前の『工場』、以降の『庭』、『小島』どれも段落が長いです。別に読みにくくない! 自然な感じ。アフリカの作家たちにあんなに力説してしまったけど、どうしよう。
いや、一般論としては間違ってはないと思います。が、それがすべてではないということなのか。
小山田浩子さんは、タイトルの付け方からして特異な感じがします。海外の小説や映画のタイトルみたいに、あっさり一つの単語だけでできています。作品がいくつか英語に翻訳されていて、英語版Wikipedeaに作品名の項目もあって("The Hole"と"The Factory")、その説明が詳しくて、日本人の視点からすると目から鱗で。え、そういう小説だったの?みたいな。内容的にはまったく現代の日本の話なんですが。
読みやすさとは何か、段落の役割とは、と新たに考えさせられる発見でした。