4月の新譜 * フレッド・ハーシュ * ECM からピアノ・ソロ(ジャズというより......)
縁あって、ときどき発売前のアルバムを聴く機会に恵まれて、普段あまり聴かないタイプの音楽をじっくり楽しむことがあります。今回はECMレコードから4月19日にリリースされる、アメリカのジャズピアニスト、フレッド・ハーシュ(Fred Hersch)の『Silent, Listening』、ピアノ・ソロのアルバムです。
Title photo: Roberto Cifarelli
実のところフレッド・ハーシュ、名前を聞くのも初めてで。いや相当著名な方らしく、わたしが単に無知なだけなんですが。ジャズのことはほとんど知らないし、普段聴くこともないので。
それがなんでまた、というと、『Silent, Listening』というタイトルに惹かれてのことでした。ジャズなのにサイレント?
Silent=無音 Listening=耳を澄ます
静けさ、あるいは沈黙(無音)を聴く、とは?
↑ アルバムの3曲目「Akrasia」、ピアノの音響を試しながら楽しんでいるような出だし。(3.8公開のフレッド・ハーシュ公式チャンネルより)
『Silent, Listening』は、ECMの名プロデューサーとして知られるマンフレッド・アイヒャーが、ハーシュと2022年に制作した『The Song Is You』(イタリアのジャズトランペッター、エンリコ・ラヴァとのデュオ)で築いた関係から生まれた作品だそうです。
ピアノと一対一で向き合い、ときに楽器の内部にそっと入り込み、正式な完成した楽曲にこだわらず、曲と曲でないものとの間を行き来しながら、静寂な(音が音になる前の沈黙の)世界をさまようように演奏する、ということでしょうか。
タイトルの『Silent, Listening』は、その意味で、音楽にとって沈黙あるいは無音がいかに大切かを伝えているように見えます。このことは、ハーシュが高校生のときジョン・ケージと出会い、話を交わしたことを思い起こさせます。(詳細は後述)
『Silent, Listening』のフレッド・ハーシュは、「沈黙とピアノ」の間で、そろりそろりと手がかりを探しているような感じ。もっと言えばジャズというカテゴリーにもさほどこだわっていないといった。そもそもこれはジャズなのか。ジャズピアニストが弾けば、何であれジャズ?
子どもの頃、ハーシュがまだジャズというものを知らなかったときに、モーツァルトやシューマンの合間に、ひとり探り弾きしていた何か(即興演奏なのか作曲なのか)、そんな音空間を連想します。
ハーシュは自伝(『Good Things Happen Slowly』、2017年)の中で、自分の音楽への取り組み方について、次のように書いています。
これはハーシュが即興演奏の名手だから、というだけでなく、音楽への取り組み全体について語っているのだと思います。
*
ジャズを聴かない自分、フレッド・ハーシュを知らない自分。音源やプレスリリース用素材をDL Mediaから送ってもらう前に、彼が過去に出しているアルバムを2、3当たってみようと思いました。判断材料として。
最初に聞いてみたものの一つがこれ。『Songs from Home』から。
2020年、パンデミックが始まった年に自宅で録音したアルバムだそうです。ライブができなくなって、ジャンルを問わず多くのミュージシャンが宅録をしたり、自宅ライブを配信したりしていたとき、ハーシュはこのアルバムで、よく知られた曲(『マイ・フェア・レディ』の“Wouldn't it be Lovely”やポール・マッカートニーの"When I'm Sixty-Four"、民謡など)から10曲を選んで演奏しています。(そういえばマッカートニーも、2020年に宅録のアルバム『マッカートニーIII』を出しています)
話が少しそれますが、この時期に宅録や配信で音楽を提供した音楽家たちは、いつもより少し広い、自分の聴衆の範囲を少し超えた(聴く人たちを優先した)楽曲選択へシフトしていたように感じます。人々の心を少しでも明るくしたい、音楽を聴くことで心を潤してほしい、音楽ができることは何か、といった気持ちが込められていたみたいです。フレッド・ハーシュがこのアルバムでやったことも、そうだったのかもしれません。
『Songs from Home』のピアノ・ソロを聴いて、どのようなピアノを弾く人かわかったところで、新譜の『Silent, Listening』を聴いてみることにしました。
とても個人的なことなのですが、ジャズを普段聴かない理由として、一番大きいのは、(型通りの)ジャズの手法、語り口、様式といったものに抵抗感があるから。どんな音楽にも一定の様式はあるし、手法、語り口はあります。クラシック音楽にも、もちろんあります。作曲家の藤倉大さんは、バッハは最後に「ジャーン」で終わるところが嫌い、と言っていました。確かに。クラシック音楽にも、よくあるコード進行やパターンがあって、だから嫌いという人もきっといるでしょう。
そのよくあるパターンが、クラシックだと気にならないのに、ジャズだと気になる(またコレか、と)のは、趣味の違い、好き嫌いとしか言いようがないのかもしれません。あるいは未知のジャンルでは、細部の微妙な違いに気づけないから、どれも同じように聞こえてしまうということか。
とはいえジャンルは、独特の語り口や様式をもっているからジャンルたり得ているわけで。ただ、一つのジャンルにすっぽり収まっていて絶対外にはみ出さないものと、境界線上をスリリングに出入りするものと、音楽には2種類あるように思います。
フレッド・ハーシュの『Silent, Listening』には、後者を期待したし、それは外れていませんでした。「聴く」という言葉に、そのニュアンスをわたしは汲み取りました。
ここでまた話が少しそれますが、たまたまSpotifyで矢野顕子の「津軽海峡・冬景色」を聴く機会があって、へぇ、と感心してしまったんですね。これって演歌の中の演歌ですよね、おそらく。演歌はほぼ聴くことがないのですが、いい曲だなと思いました。矢野顕子は矢野ジャズ風にいつものようにピアノ弾き語りで歌っているのですが、ある意味、演歌としても成立していると感じました。演歌の心というか。題材が育った場所だからでしょうか(矢野顕子は青森出身)。
で、あれ、演歌って音楽的に優れたものがあるんだな、と感じたんです(偏見が過ぎますが)。でもオリジナル(石川さゆり)を聴いて、それに気づいたかどうかは怪しいです。矢野顕子で聴いたから気づいたように思います。つまり、演歌の境界を少しはみ出た演奏だったから、演歌の良さに気づいた。
フレッド・ハーシュの『Silent, Listening』にわたしが期待していたものも正にそれで、あまりジャズっぽくないといいな、、、と勝手な思いで聴きました。
『Silent, Listening』の1曲目は「Star-Crossed Lovers(悲運の恋人たち)」で始まります。ビリー・ストレイホーン&デューク・エリントンによる、『ロメオとジュリエット』から生まれた楽曲だそうです。tunes and not-tunesのtunes(曲、メロディー)の方です。
ただ最初の1/3くらいまでのメロディーラインが出てくるまでは、ごく小さな音で単音の連打が続いたりして、なんだろうなぁーこれはという感じ。どこに連れていかれるのかなぁーと期待が高まります。
次の「Night Tidelight」は、ドーンという超低音部の音から始まって現代音楽か?みたいな。ジャズの語りはほとんどない。ほぼノンジャンルの音響作品のような味わい。
3曲目の「Akrasia」。Akrasiaとは何なのか。アクラシア=古代ギリシア語で「自制心のなさ」「意志の弱さ」「悪い行為だと自覚しているのに手を染めてしまう心の傾向」を意味する単語。(Wikipedia日本語版) あ、これ、自伝の中でこのような気持ちになることについて書いています。(後述)
自伝と言えば、Kindleのサンプル版で冒頭を読んだだけなのですが、『Good Things Happen Slowly』はフレッド・ハーシュの人柄や性向、気質がわかって興味深く、音楽の理解にもつながる良書です。冒頭部分は子ども時代の話が大半で、それも10歳から12歳くらいのところがクライマックスというかすごく面白い。もうその時点で、音楽家なんですね、この人は。
わたしの持論は、たいていその頃(まで)に、将来に通じるその人の個性の芽のようなものが出てくるものだ、という。自我といってもいいんですが。
『Silent, Listening』第8曲目「The Wind」は、小さな音のかけらをもとに、何かを求めてさまよい発展していくような印象の曲。音楽という目に見える形のない時間芸術にとって、常に動いている、動き進んでいく形状のアートにとって、先が確定されていないことは、音楽に生命を与えるために大切なことのような気がします。
クラシックの演奏家にも、この「その場の即興性」を重視する人はいます。練習を積んできたことをステージで再現するのでは、音楽に生命を与えることはできない、たとえ楽譜に定着された作品であっても、演奏時の即興性は大切という。そう考えると、ピアノの発表会で習ったことを間違わずに再現する、という教育は根本のところで音楽的ではないのかもしれません。少なくとも取り組む姿勢として。
『Silent, Listening』第10曲目「Softly, As In A Morning Sunrise(朝日のごとくさわやかに)」は、1920年代のスタンダード・ナンバー。聞いたことのある、メロディーの立った親しみやすい曲が、右手のみの旋律によるシンプルな演奏で軽快に始まるとき、どこかホッとする気分が生まれます。これが「曲と曲でないものの間を行き来する」このアルバムの特徴であり、音楽に対するハーシュの提案あるいは提示なのかもしれません。
最後にハーシュの自伝『Good Things Happen Slowly』の冒頭から、印象的だった子ども時代のエピソードいくつか紹介します。
ハーシュはシンシナティの裕福な家庭で育ちましたが、両親は夫婦関係に問題を抱えていて、家の中には「耐えられない緊張」があったそうです。そこから逃れるという意味で、子どものハーシュにとって音楽の存在は大きかったとも。
父方の祖母のエラはアマチュアではあるけれど腕のたつピアニストで、ハーシュは彼女からたくさんの影響を受けたようです。音楽だけでなく、ハーシュの「他の子どもと違う」という自意識(スポーツが苦手、男の子が好きなど)を、優しく受け入れてくれた人でもありました。祖母の死後、彼女のスタインウェイをハーシュは相続しています。
母方の祖父はアマチュアのバイオリニストで、クラシック音楽を愛し、地元のオーケストラ創設にも力を貸した人でした。ハーシュは子ども時代、祖父の家をよく訪ね、熱心にバイオリンの練習に耳を傾けたといいます。
4歳のころ、ハーシュが家のピアノで、テレビのアニメの曲などを好き勝手に弾いているのを見て、両親は息子の才能に目をとめます。ガーシュウィン風のヒップな演奏だったとか。それで5歳のときに、地元のピアニストのところで、レッスンを受けるようになります。ただ課題の練習より即興で好きに弾くほうが、ハーシュにとって楽しかったようです。
そんなわけで8歳のときに、音楽院の院生に作曲と楽典を学ぶようになります。様々な様式で音楽を書くこと、4声の作曲、対位法、楽曲分析を学び、6年生までには、音楽院1年生のやることを終えていたとありました。
10歳のとき、学校で『ピーターパン』の劇をやることになり、ハーシュはクラスの先生に音楽を担当させてほしいと申し出ます。できたものを先生に見せたところ、一部の修正を指摘されたけれど、「ノー」と言って自分を通したそうです。「人生で初めて、自分の書いたものを守ろうとした瞬間だった」とハーシュは記しています。
高校生になって、アメリカの作曲家、ジョン・ケージとの出会いがありました。子ども時代からのピアノの先生が、ハーシュの家のリビングルームでコンサートを開き、そこでジョン・ケージのプリペアド・ピアノによる楽曲を演奏したのです。ケージもコンサートに参加し、ハーシュの家で二晩泊まったそうです。ハーシュはその頃、ジョン・ケージが音楽史の中の重要人物とは知らなかったのですが、自作曲を見せ自分の音楽を語り、ケージから励ましを受ける機会を得ました。「優しくて、ちょっと変わり者風で、気取ったところがなく」「大柄なのに、妖精のような雰囲気があった」と印象を書いています。
このようにハーシュの子ども時代の大半は、クラシック音楽の周辺で学び、楽曲づくりをしていたようです。しかし1960年代のポップミュージックの時代がくると(ハーシュは1955年生まれ)、ジャニス・ジョップリン、ビートルズ、ジョニ・ミッチェルなどをたくさん聴くようになり、高校の終わり頃には、ジャズに心惹かれるようになります。ハービー・ハンコック、ビル・エバンスなどを愛聴し、高校のジャズバンドに入って活動するようになりました。
その頃だと思いますが、家庭内の不和による緊張から逃れるためか、LSD、スピード、マリファナにはまったり、飲酒運転をしたりして「苛立ちを爆発させ、無謀な行為にふける」ことも経験しています。また虚勢を張りながらも常に不安をかかえている状態で、大人になった後も、尊大なところと自己肯定感の低さの間を揺れ動いていた、と告白しています。
上でサンプル音源を紹介したアルバムの3曲目「Akrasia」は、こういった「悪い行為だと自覚しているのに手を染めてしまう心の傾向」への回顧なのでしょうか。
以上、<ジャズ嫌いの門外漢>による、フレッド・ハーシュの新譜紹介でした。リリース後、ぜひ全曲をお楽しみください。
こちら↓にこの記事の英語版があります。(Mediumに寄稿した短縮版/DeepL翻訳をベースに修正、改訂、英語読者用に加筆して仕上げました)