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解体 →→ 再構築。新たな音世界の提案者。ヴィキングル・オラフソン。

アイスランドという北極圏に近い、最北の地(島)に生まれ育った少年が、これまでにあまりなかったクラシック音楽へのアプローチで、いま人気を集めています。
Title photo by Ari Magg, from the album Philip Glass・Piano Works(2017)

ヴィキングル・オラフソン(1984年〜)、アイスランドのピアニスト、バロックから現代まで新旧の作品を手に、独自のコーディネイトで唯一無二の音楽世界を世に示す音楽家。演奏するだけでなく、古典をはじめとする楽曲を広く深く探索し、ときにそれをピアノのために編曲し、アルバムやフェスティバルでユニークなプログラムを組む人、一つ一つの作品に対して完璧な自己プロデュースを行なうディレクター、さらにはもしかしたらビジュアルアーティストでもあるかもしれず。ちょうど、同じアイスランドのビョークがそうだったように。

これらのことは、ポップスの世界ではある程度、行なわれていることかもしれませんが、クラシック音楽の世界では、特に日本のようなクラシックというジャンルが孤立している国では、あまり見かけることがないように思います。ポップスの世界ではそのような活動をしている人を、アーティストと呼んだりしますが、このヴィキングル・オラフソンはまさにそのアーティストの名がふさわしい人です。

ヴィキングル・オラフソン、現在38歳。彼のようなアーティストはいったいどのようにして誕生したのか。

今年の10月にリリースされる新譜『From Afar(遠くから)』のPVで、オラフソンは、アイスランドという土地と自分の音楽や人間性との関係について、次のように語っていました。

アイスランドという土地が与えた影響についてはわからない。影響というのは複雑で感知しにくいものだから。ただ、この土地のもつ「silence(静けさ)の体験は関係あるかもしれない。

ヴィキングル・オラフソン『From Afar』(予告編より)

サイレンス、静けさ、静寂、沈黙。このことをオラフソンは別の言葉「hushed」あるいは「hushed voice」とも表しています。静まり返ったというような意味です。たとえばシューベルトの『冬の旅』を初めて聴いたときこの歌曲集は「hushed」のカテゴリーにすぐさま分類されたそうです。

「静けさ」の感覚は、オラフソンの音楽を語る上で、特徴の一つになるものだと思います。新アルバムからシングルリリースされたばかりの、アイスランドの作曲家Kaldalons(カルダロン:1881〜1946年)の『アヴェ・マリア』(オラフソン編曲)を聴いてみてください。

この記事を書く少し前、オラフソンのウェブサイトで、blogという項目を見つけました。見てみると、かなり古い時代から折に触れて書いてきたオラフソンの文章が読めます。数は少なく、2016年以降は書き込みがないのですが、それ以前の、まだ今のように有名になる前の文章がとんでもなく素晴らしく、この音楽家の秘密を知る大きなヒントになります。

2016年11月に書かれたblogでは、子ども時代から20代にかけて聴いてきた、6つのアルバムを紹介しています。これはオラフソンがドイツグラモフォンと専属契約をした折のことで、選ばれているレコードはイエローレーベル(ドイツグラモフォン)のものばかり。

それぞれのアルバムの思い出話が丁寧に語られています。最初の1枚は10歳の誕生日に叔母に買ってもらった、モーツァルトとウェーバの「クラリネット五重奏曲集」。この叔母さんというのは、身内の子どもたちが10歳になると、レコード店に連れていって好きなレコードを選ばせて贈る、ということをしていた人。まあ、そういう環境で育ったのですね。

当時オラフソンはモーツァルトのピアノソナタを練習していたそうで、レイキャビックの表通りにあるレコード店の、一日中オペラがかかっているガラス張りのクラシック音楽ルームで、音楽をよく知る熟練のスタッフのアドバイスを受けて、この1枚を選んだとのこと。ピアノ曲ではなく、室内楽を選んでいるところがさすがです。

初めて自分で買ったレコードは、カラヤン指揮のベルリンフィルのベートーヴェン交響曲集BOXセット。12歳か13歳のときのことで、これを買うために新聞配達をしてお金を貯めたそうです。ああ、いいなぁー、こういうの。

9つの交響曲が入った、つまり全交響曲のアルバムセット。これを1番から制作年度順に聴いていったとか。そして第1番は、今もいろいろな意味で最も愛する作品だと書いています。ハ長調の底抜けに明るく楽天的なところが、同じく初期のピアノ協奏曲1番と同様、この楽曲には備わっているとのこと。なんでも買った最初の1年間で、100回は聴いたと書いています。12歳の子どもの勢い、夢中になりぶりが想像できます。

ピアノ曲では、エミール・ギレリス、ポリーニとともに、アルゲリッチのアルバム(デビューアルバム)を上げていました。アルゲリッチの真摯にして知的なアプローチに惹かれ、ピアノの新たな可能性に目を開かれたと書いています。ジュリアード音楽院に留学していたときは、ニューヨークでほぼすべての彼女のコンサートに行き、最前列で胸をときめかせて演奏に聞き入ったそう。ロストロポーヴィチ指揮ニューヨークフィルのショスタコーヴィッチ、プロコフィエフのピアノ協奏曲が一つの演奏会で行なわれた際は、終演後に舞台裏にアルゲリッチを訪ねたそうです。アルゲリッチは親切に話をしてくれたのに、まだ若かったオラフソンは(いつもの自分らしくなく)顔を赤らめるばかりで、うまく口がきけなかったとか。

こんな風に子ども時代から音楽学校時代を過ごしたオルフソンですが、ジュリアード時代は、すべてがコンクール中心に動いていることに疑問をもち、自分は違う道をとることにします。コンクールではなく、もっと創造的な方向を目指す決心をしたのです。オラフソンの子ども時代からの関心を見ていくと、ピアノに限ることなく、幅広い音楽世界を追求、体験していることがわかります。ひょっとして作曲家を目指していたのか、と思えるような。

その一つにリート(ドイツ歌曲)への関心がありました。10代のときにリートを先生について学んでいたことがあり、シューベルトの『冬の旅』と出会います。すぐにでも(伴奏のピアノを)弾いてみたいと思ったオラフソンでしたが、当時はドイツ語の歌詞を読むこともできず、その夢がやっと叶うのは10年以上たってからのことでした。

25年以上この歌曲集を歌いつづけてきたアイスランドの名バス歌手、クリスティン・シグムンドソンと出会い、2011年の夏の初めに『冬の旅』の演奏が実現します。これはステージ、スタジオの両方で録音し、二つのバージョンを収めたダブルCD / DVDとしてオルフソン自身のレーベルDirrindiから発売しています。(アイスランドの光溢れる夏に『冬の旅』というのもオルフソン独特の趣向で、なんでも『クリスマス・オラトリオ』を夏至の日に聴くのと同じ好みであるとか)

シグムンドソンの柔らかで深みのある声と、オラフソンの生き生きとした演奏が大きな魅力となっている『冬の旅』から、第1曲「おやすみ」を聴いてみてください。ここでもオラフソンの演奏は、りっぱに伴奏者であると同時に、卓越したアーティストなのです。

室内楽曲、オーケストラ曲、リートの伴奏と幅広く音楽を探求しつつ、ピアニストの道を歩んできたオラフソンですが、ディレクターとしての能力は、どのようなものなのか。それは音楽祭のディレクションを見るとよくわかります。

たとえばVinterfest(冬のフェスタ)という、室内楽を中心にしたアイスランドの音楽祭のディレクターを務めたときのブログ(2015年/音楽祭は2016年2月)があります。オラフソンはこの年のテーマを「New Worlds」としました。そのプログラムがとてもユニークなのです。その後のアルバムのプログラムの独自性が、すでにその当時からあったことがわかります。以下、そのプログラムの概要です。

[ NEW WORLDS ]

動物の世界
Animal Worlds)
小さな虫との出会いからザトウクジラの歌まで、動物王国への旅を音楽で。ラモーによる鳥の歌声、ノルウェーの民謡(カモ)、グリンカ(1804〜1857)のヒバリ、ジョージ・クラム(1926〜2022)のクジラの歌、シューベルトの『ます』。
異世界Otherworldly)
ゴーストや悪霊の世界を呼び起こし、同時に崇高な静けさをもたらす音楽。18世紀イタリアの作曲家タルティーニの『悪魔のトリル』、ベートーヴェンの『幽霊』、ショスタコーヴィッチの『ヴィオラソナタ』、そしてアルヴォ・ペルトの『鏡の中の鏡』。
*どれも有名な曲ながらこのようなコンビネーションで聴くと…….
準備された心The Prepared Mind)
フランスの細菌学者パスツールの言葉「チャンスは、準備された心に有効に働く」は、ジョン・ケージの偶然性の音楽にフィットする、という解釈から。ケージのプリペアード・ピアノの発明は、偶然の産物だったというエピソードを紹介。曲はジョン・ケージのソナタと間奏曲からのセレクト。
境界を超える(Crossing the Border)
モーツァルトのピアノソナタを引用したアルヴォ・ペルトの『モーツァルト-アダジオ』から、スティーヴ・ライヒ、ブーレーズ、そしてワーグナーなどの楽曲を並べて。
*ワーグナーとは意外な選曲に思えるけれど『ジークフリート牧歌』は元々小編成オーケストラのための楽曲で、ここでは6台のピアノで(オラフソンの編曲ではないか)演奏された模様。

Vinterfestプログラムより

このプログラムを見たとき、最初に「動物の世界」がきていることに意表をつかれました。[New Worlds]と題した音楽フェスの最初に「動物の世界」とは! オラフソンの知の世界の深さ広さを思い知った感じ。古いもの新しいもの、明るさ暗さ、小さくも大きくもある世界のバラエティを見せてくれ、また全体として、前衛や現代曲を交えながらも、気を張ることなく多くの人が楽しめるプログラムになっているのでは、と感じました。

オラフソンの音楽世界は一見、(3~5分の短めの曲を色とりどりのビーズを繋ぐように並べるので)イージーリスニングに近いものを感じさせることがあります。たしかに、easyな(気張らず、ゆったりと心地よく、優しい)気持ちで聞けるという意味で、そう言えるかもしれません。でもそれは底の浅い、受け身中心の音楽とは無縁のもの。数百年にわたる長い歴史と膨大なアーカイブをもつクラシック音楽を、いまの時代の気分の中で、どう利用し再生させるかのヒントが、彼の選曲にはあるように思います。

そもそも今の時代、クラシック音楽を聴く場合、人は何を期待するのでしょうか。いや、期待などハナっからしないのか。

もし期待したとしてもそれは最小限のもの、期待の幅がとても狭いものに思えてしまいます。過去の名作と言われている楽曲を、ベートーヴェンやモーツァルト、シューベルトだったりを新しい演奏家がどんな風に演奏してみせるか、というのは確かに一定の人々の関心を惹くかもしれません。今の演奏家は軒並み、昔の演奏家と比べると技術が非常に高いと言われてるので、その技術や新たな解釈を楽しむことはあるでしょう。

しかし、それだけ?

わたし自身は演奏家の腕比べには、さほど興味がありません。どれだけ厳しい練習を重ねたかというエピソードを聞いても、名のあるコンクールで優勝して高い地位を獲得していたとしても、あるいは過去の巨匠といわれる人たちの名演奏に対しても、一定以上の興味が湧くことはありません。

では何を求めているのか、わたしという聴き手は。
まあ正直なところ、自分がクラシック音楽をそれほど聴く人間ではない、とは思いますが、基本的に。ただこのジャンルのもっている底知れない可能性、そして未来に対して期待はあります。

そのようなわたしが何を求めているか、といえば、いま再想像され創造されようとしている新たな、見たことも聞いたこともない世界に立ち会う、あるいは音楽のラビリンスに迷い込むことです。クラシックとその周辺に広がり連なる道筋にある豊かで超ゴージャスな素材によって、別世界へ連れていかれるような、そのような体験を求めています。

そこではおそらく、まず過去の遺産の解体(従来の演奏や聴き方の枠組みからの解放)があり、そして再構築がなされるはずだ、と。

小さな頃から楽器を扱う術を一心に学び、長い年月を国際コンクール優勝のために、時間も能力も使い果たしている演奏家からは生まれてくることがないであろう、新たな音楽の誕生と言えるものです。それは必ずしも、作曲家の頭からだけ生まれてくるものではない、と感じています。

このような音楽に立ち会うことは、クラシック音楽とかポップスとかといったジャンル分けさえ、あまり意味のないものにしてしまうかもしれません。

絵を見るときに、これは印象派だから、これはシュールレアリズムだからといって区別し、見る態度を変えて鑑賞しないのと同じように。

ヴィキングル・オラフソンのアルバムはどれも、そこにある音楽に知識抜き、理屈ぬきで立ち会う体験になります。オラフソンがつくり上げた音の世界の中をさまよう時間になります。一つ一つの曲名や作曲者は、それほど大きな意味をもたない感じがするし、どういうマジックをつかっているのか、バロック音楽が現代の音楽のように、現代の音楽が古典的な音楽のように聞こえてしまうこともあります。

たとえばアルバム『ドビュッシー -ラモー』であるとか『モーツァルトと同時代作曲家』であるとか。オラフソンのアルバムでは、各曲がランダムに見えるような順で置かれているので、最初、聴いているのが誰のつくった何という曲なのか、リストを見ながら聞こうとしましたが、途中でやめました。そうすることの意味が感じられなくなったのです。そして…… 耳で聞いていて区別がつかないことが起きてきたからです。

これはおそらく、ヴィキングル・オラフソンのアルバムづくりにおける、企みの一つだと思いました。おそらくアルバムの曲順は、オラフソンが考え抜いて決めたものと思いますが、一方で、シャッフル再生で聴いた場合も、それはそれで……意外なミックスになるかもしれず。

また『フィリップ・グラス:ピアノ・ワークス』を初めて聴いたときは、えっ、これがグラスなの? あのミニマルミュージックのフィリップ・グラスはこんなピアノ曲をつくっていたの??? と。古典的な作品であるかのように聞こえた瞬間がたしかにありました。

オラフソンのアルバムを聞いたことで、イタリアのバロック期の作曲家、チマローザやガルッピ、フランスのバロック作曲家ラモーの楽曲を聴くだけでなく、楽譜を探してピアノで弾くようにもなりました。なんてシンプル、なんと控えめな美しさ、淡々としていてでも時に好ましい熱さがあり。いまの時代、そこに生きる自分の気分と照らしても、過去の遺物を弾いているという感じがちっともしません。
と同時に、フィリップ・グラスの『ピアノワークス』収録曲のいくつかにもはまりました。こちらは現存の作曲家なので、ネットでデジタル楽譜を購入して弾いてみました。

こういった古典、現代作品は、おそらくオラフソンを通してしか、感化されることのなかった作品だと思います。
つまり「これはバロック期のすぐれた作品です」とか「現代の作曲家、フィリップ・グラスのピアノ曲です」といったアプローチからその世界に引き込まれるということが、果たしてあったかどうか、という意味で。

ニューアルバム『From Afar(遠くから)』について少し書きます。上で紹介した『アヴェ・マリア』の他に、ハンガリーの作曲家クルターグ(1926年〜)編曲によるバッハの『トリオソナタ第1番』が、すでにシングル発売されています。『トリオソナタ第1番』の原曲は、右手、左手、足鍵盤の独立したパートによる合奏形式の曲を1台のオルガンで弾くという野心的な作品で、クルターグはこれをピアノ3手連弾用に編曲しています。
下のサンプルはアップライト(フェルト使用)版で、穏やかで温かな音色が楽しめます。(グランドピアノ版も同時収録)

このアルバムは、ハンガリーの作曲家クルターグ(1926年〜 )とオラフソンが最近出会い、話をしたことからインスパイアーされて企画されたものだそうです。ちなみに上のバッハは最近、クルターグからオラフソンに献呈されたとか。この曲はクルターグ自身、妻のピアニスト、マールタ(2019年死去)と弾いていたもので、3手連弾ということで、オラフソンは妻のピアニストHalla(ハーラ)の「右手を借りて」録音ができたことは、「husband-wife performing tradition」を受け継ぐことができて嬉しい、とFacebookで語っていました。

クルターグ・ジェルジュ、好きな作曲家です。わたしにとってはスイスのオーボエ奏者で作曲家のハインツ・ホリガーとの2019年のアルバム『対話』が印象的でした。これはレーベルのECMから直接CDを買いました。二人の長年にわたる深い友情によって生まれた、唯一無二のアルバムで、いまも大事にしているし、時々聴いて感動を新たにしています。現代音楽でこのように胸打つ作品、そして演奏は初めて(あるいはアルヴォ・ペルト以来)のことでした。

クルターグはもともと、パーソナルな小さな作品を特定の人に手紙を書くようにして作曲する人です。そのクルターグの影響もあってか、今回のオルフソンの『フロム・アファー』もこれまでになくパーソナルな心情を表したアルバムと言われています。

オラフソンは去年(2021年9月)クルターグの招待を受けて、ブタペストで(おそらく初めて)この偉大な作曲家と顔を合わせています。オラフソンのコンサートがこの街であった折りに、と聞いています。オラフソンは当初、話ができるのは15分くらいかな、と予想していたそうですが(おそらくクルターグが高齢のため)、2〜3時間たっぷりと話をし、オラフソンがピアノを弾いたりもして過ごしたそうです。(話をして、ピアノを弾いて……うぁ、いいなあ)

そのときクルターグから受けた言葉の数々にオラフソンは感銘を受け(人生および音楽に新たなperspective=視点、奥行きを与えてくれた)、それに対する感謝の気持ちをなんとか言葉にしようとしたけれどできなかった、そして頭に浮かんできたのがMusic Mapだったと言います。そこから自分の子ども時代の音楽について考えはじめ、当時の風景とクルターグの美学には強い関係があることがわかったと語っています。

そのようにして生まれたのが、今回のアルバムでした。素晴らしいエピソードじゃないですか?

曲目リストを見ると、このアルバムはバッハ「ルターの讃美歌」(クルターグ編曲)に始まり、シューマン、クルターグ、ブラームス、バルトーク、トーマス・アデス(英国の作曲家、1971年〜)などが交代ごうたいランダムに並んでいる(ように見えます)。いったいどんな聴きごたえのものなのか。ぜひともアルバムで通して耳にしてみたいです。

聞くところによると、オラフソンが子どもの頃に好きでよく弾いていた思い出の曲がたくさん入っているとのこと。それが「パーソナルなアルバム」の意味でもあるのでしょう。またアップライトピアノを使用しているのも、子ども時代の音色を思い出すからかもしれません。

オラフソンの母親はピアノ教師で、父親は建築家でしたけれど作曲もする人でした。あるとき家族用のグランドピアノが家にやってきて、元々あったアップライトピアノがオラフソン専用のピアノとなり、自分の部屋に持ち込まれました。これでいつでも好きなときにピアノに触れる、とオラフソンは嬉しかったとか。もしかしたら今回フェルトピアノを使っているのも、当時、自分の部屋で弾くとき(たとえば母親の生徒来ているときとか、父親が作曲しているときとか)、中央のペダルで音を小さくして弾いていたことがあって、そのときの柔らかな音色が楽曲の響きと一つになっている、なんてことがあるのかも?(まったくの想像ですが)
*元々グランドピアノは家にあって、オラフソンが7歳くらいのときに、中古のアップライトピアノが自分専用のピアノとして、自室に持ち込まれたということのようです。

今回のアルバムは、(CD、LPともに)アップライトピアノとグランドピアノのダブルCD / LPとなっていて、まったく同じ楽曲が両バージョンで楽しめます。オラフソンによると、両バージョンの録音をしてみて、どちらか一方だけを選ぶのが難しかった、二人の子どもの内の一人を選べないように、とPVの中で語っています。ストリーミング優勢の時代に、パッケージ版をどう売るかの一つの解答にもなっているように思えます。

またパッケージ版にはブックレットが付いていて(オラフソンのエッセイなど)、これもストリーミングにはないもの。本当に好きで取っておきたいものはパッケージで、という方向性はあり得るかな、と思います。

アルバム『From Afar』はすでに予約が始まっていて(日本ではユニバーサルミュージックが販売)、わたしはAmazonで購入しました。今から届くのを楽しみにしています。

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