メクレマ、閃光融合テスト*をしくじる マーティン・エグブレウォグベ(ガーナ)
COMPILATION of AFRICAN SHORT STORIES
アフリカ短編小説集 もくじ
"MEKREMA FAILS THE FLASH FUSION TEST"
*閃光融合テスト(Flash Fusion Test):点滅している光が点滅ではなく、連続している(融合している)と認識される時点を評価するテストのことで、脳の視覚処理速度を知ることができる。(ChatGPT)
スーツの上着は車に残してきたが、メクレマの筋骨逞しい胸に張りついた白いシャツ、その上で揺れるダークブルーのネクタイ、それだけでこの男がこの場所、この時間にまったくそぐわないことを十分表していた。車から降りたときにはピカピカだった黒い革靴は、分厚い砂埃に覆われていた。グレーのズボンは黒さを増していた。ときおり脇を走り抜ける乗用車やトラックのヘッドライトが闇を照らすと、轍や道の窪みを通過する車が大きな音をあげ、巻き上げられた砂塵がゆっくりと地面に落ちていくのが見えた。男の白いシャツには赤土の筋がつき、襟足に砂粒がはさまり擦れた。気温はそれほど高くないのに、メクレマは脇の下を汗で濡らしていた。見上げると南の空に星が一つ、ハルマッタンの靄(もや)を透かして鈍く輝いていた。役立たずの仲間だ、この星は。頼りにならない、とメクレマは思う。
*ハルマッタン:西アフリカで11月から4月にかけて吹く貿易風。細かい砂塵を含み、非常に乾燥している。
メクレマは大都市中心部から離れた、建設半ばの郊外地域にいた。煌々と光あふれる巨大な豪邸と、草ぼうぼうの壁だけの廃墟の間を、道が縫うように走っていた。ここは近隣の浮浪者や小動物の住処(すみか)になっているのだろう。
その晩、月はなかったが、上空は大都市が放つ無数の灯りによって照らされ、ハルマッタンの靄の中で光が拡散し、闇を明るくしていた。
メクレマは自分がどこに行こうとしているかわからなかった。道はつづいている、あらゆる道がそうであるように、だから彼はそれに従った、道を行く者がみなそうするように。思考の歯車が何かの拍子に外れ、制御不可能なループにハマってしまったのだろうか。若く賢く将来有望な弁護士に認知力の崩壊が起きたのか。右足を踏み出し、左足を踏み出す、何も複雑なことはない、右足、そして左足。
そんなメクレマも、その日の昼には、問題を抱えたクライアントの何十枚もの調査書類や財務報告書をチェックしており、そこからたった数時間後に、、、こんな奇妙なことが起きるとは! いまはメクレマと救世主の光る一つ星が空にあるのみ。少し前、メクレマが主要道路を降りたときは、もっと人がいたはずだ。タールの道路と無舗装の道が出会う交差点には、たくさんの店とタクシー乗り場があった。ボロボロの古い車が3台、絶えることのない土埃で黄色いフェンダーは褐色に染まっていた。運転手たちはベンチにすわって何か言い争っていたが、客らしい人が現れて中断した。背中に赤ん坊をくくりつけ、小さな男の子を連れた女性だった。交差点近くにある電化製品を売る店から、大音響が聞こえていた。他の店からはラジオやテレビの音が漏れていた。たくさんの人間が楽しげに気ままにぶらぶらしていた。メクレマは騒音が苦痛だった。リングウェイ・エステイトの平穏で静かな我が家を、リッジにあるオフィスを思い浮かべた。
メクレマはしばらく交差点をうろつき、体重を右足に、左足にと移しかえ、東・西・南・北と順番に向きを変えると、ゆっくりと店が立ち並ぶ方へと進んだ。そこで蛍光灯にテラテラと反射する赤シャツの男と出会った。その男が店主に何か言い、店主が笑った。この男は何と言ったのか? おそらくメリー・クリスマス、平和な世界を、人々に愛と幸せを、とか。メクレマは舗装道路から土埃の道へと出て歩き始めた。すぐに交差点と自分の距離は100メートルとなり、騒音は小さくなっていった。そしてさらに200メートル、交差点と自分の間に距離を置くと、道はすっかりひとけがなくなった。メクレマは歩きつづけた。道の両側にある薮が風に揺れてサワサワと心地いい音をたて、その影があっちへこっちへと頭を揺らした。見張り番のように木々がまばらに立ち、遠くの方まで続いていた。
いったい何に惹かれて自分がここまで、音も途絶え家も見えない場所までやってきたのかよくわからなかった。立っている場所から見て、そこは板張りの売店のように見えた。店の前の敷地は、青と白の縞模様にペイントされた、肩の高さの木の塀で囲まれていた。藁葺き屋根が人の背の高さくらいまで傾斜し、囲いの出入り口に迫っていた。オーニングだろうか。が、藁葺きのオーニングなど、メクレマは見たことがなかった。これは屋根といった方がいいのだろう。メクレマが近づくと、そこはある種のバーのように見えた。メクレマは入り口に引き寄せられ、ドア代わりの竹のビーズのカーテンに手をかけた。
何がメクレマを引き寄せたのか。外にある小さな黄色い照明灯だったのかもしれない。不規則に、意味なく明滅を繰り返す照明灯。メクレマは遠くからそれを見た。そして近づいたとき、心の奥底で、ここは最終地点だ、キリストが生まれたと言われる嘘の夜に、自分が来るべき場所だ、と知った。おそらくこれは再生なのだ、入り口のビーズのカーテンを押して入ったとき、この場所に違いない、ここだ、とわかった。人が罰を受けるためにやって来る場所だった。
竹のカーテンを分けて中に入ったとき、最初に気づいたのは匂いだった。アクペテシエ(西アフリカの蒸留酒。パームワインや砂糖きびから作られる)の匂い、タバコの匂い、マリファナの匂い、そして微かな尿の匂い。次にメクレマが気づいたのは、ひどい暗さだった。入り口の真向かいに据えられたカウンターの上の白熱灯のあかりが、唯一の光源だった。三番目に気づいたのは、ここが静かだということ。外も静かだったのですぐには気づかなかったが、ここはバーだ。酒を飲む場所だ。飲み屋なのにひっそりしている、そんなことがあるのかとメクレマは驚いていた。
カウンターには緑のくたびれたフェドラを被った年寄りがすわり、一人でオワレ*をやっていた。半球の中で玉がぶつかる柔らかな音が、深い静寂を破る。メクレマはどうしたものかと思いつつ、カウンターの前に立った。天井から釣り下がるランプはすすで汚れ、まだらに光を放っていた。バーテンダーがメクレマを見た。笑顔を見せるわけでも話しかけてくるわけでもない。無表情のままだった。カウンター背後の棚にはボトルがあったが、メクレマの見たところ、ほんの5、6本しかない、すべてラベルはなしだった。どうしたものか、メクレマは動揺した。サイダーを、と言いかけたが、もちろんこの場所にサイダーなどない、ここにサイダーがあるわけがなかった。困惑が顔に現れたに違いない。バーテンダーが指を3本掲げた。人差し指、中指、薬指。そうではなく、という表情を一瞬よぎらせたが、メクレマはうなずいた。バーテンダーは酒を(黒っぽい不透明の)を三つ指分注ぎ、ずんぐりしたグラスをメクレマに差し出した。それはトラクターのエンジンに注ぐ液体のような臭いだった。沈黙があり、その場で二人の男は向かい合った。男たちが最終的に罰を受けるために来る場所だ。儀式はただ一つの方法で行なわれる、潜在的にそれがわかった。メクレマは酒を一息で飲み干した。すると喉元が燃え上がり、目に涙が浮かんだ。そしてこれですべて型がついた、彼はそう理解した。抱えているあらゆる問題が集結し、一つになる場所、そこにメクレマはいた。
*オワレ:2列に並んだ器と種子の玉を使って二人で遊ぶガーナのゲーム。
メクレマは席を探そうと振り向いた。闇に慣れた目がとらえたのは、あちこちに散らばった椅子であり、ぼんやりした灯りの中の影のような存在だった。その人たちはここで遊んでいるわけではなかった。どの人も真面目そのもの。意識朦朧としてドアにもたれかかる男、タバコを手にして壁のそばに立っている若者、何かモゾモゾと口にしている。何を言っているのかメクレマには聞き取れなかったが、それが自分の知らない言葉だったとしても、何を言っているのかわかると思った、ここは最後に罰を受ける場所なのだから、それがどんな罪によるものであっても、はっきりしているのは、ここにいる者たちは苦しみを共にする仲間だ、ということ。低いテーブル越しに向き合っている男が互いを検証している、いや探り合っている、相手の表情を、しかし一言も発しない。見た目は睨み合いを競ってるように見えたが、彼らも遊んでいるのではなかった。すぐにメクレマはこの二人は互いを見ているのではないとわかった。彼らをここに連れてきたものの中に埋もれていた。この場所へ、彼らを愛で包み込みここにつれてきたのだ、世界が差し出さなかった場所へ、差し出せなかった場所であり、差し出そうとはしなかった場所だった。しかし人が行くべき場所は常にある。ヨセフとマリアは宿屋に断られたとき、飼い葉桶を見つけた。そしてメクレマは電話の声が忙しかったの、と言ったとき、青い売店を見つけた。その声は愛について話さなかった、いや、それはもう過ぎ去ったことだった、いや、声が意味していたのは、いや、理由は言わなかったが、それはノーだった、最後のノーだった、とはいえ、その声はノーとは言わなかった、嘘をついていた、行けなかったのは仕事のせいだと言った。
最初、メクレマは酒の代金をどうやって払ったらいいかと思案した。車の中に電話も財布も置いてきてしまった。バーの男は財布を取りにいくのを待っていてくれるだろうか? ネクタイ(砂埃で汚れているが)は高価なもので、ここにいる全員の酒代をじゅうぶん払えるくらいだ。しかしバーテンダーはそんな支払い方を許すだろうか? 明らかにだめだろう。腕時計はどうだろう。メクレマはあれこれ頭を巡らせたが、それは馬鹿な考えであり、また必要のないことだとわかった。この場所で重要なのは、酒代を払うことではなく、罰を受けることだからだ、それが真実だった。人は罰を受けるために金銭を支払う必要はない。それとも彼には必要だった? 恐ろしい問いだった。
メクレマの車は道路に放置されており、そこはいまでは宇宙の彼方のように遠い場所に思える。去年発売のBMW3シリーズだった。洗練されたマシン性能、仲間内で賞賛の的となり、自分の地位はうなぎのぼり、車を目にするたびに、そして言うまでもなく、乗ったり降りたりする際、あるいはよく知られたあの「スィン」というドアの閉まる音を耳にするたび、メクレマの心はプライドで満たされた。運転は心楽しく、幸せな気分だった。エアコンディショナーは車内をヒンヤリ冷たく保ち、極上のステレオは滑らかな音を放つ、非常にクリアで素晴らしい低音、ほとんど耳元でUB40が音をかきならし、鼓動した。メクレマは車を道路脇に寄せ電話をかけるとき、笑みを浮かべた。1日中、待ち焦がれていた、1週間ではなかったか? いや実際のところ1か月だった、そしてすべてが素晴らしく、いとも容易く、喜びと笑いに満ちているはずだった。しかし起きたことはそうではなかった。1分経つか経たないかのうちに、世界は終わりに向かった。メクレマは席にすわり、手には光りを発するノキア、しかし画面は「つながりません」の表示、通信不可。しかしなぜ、繋がらないのだろうか? メクレマに残された解けない疑問。
カウンターでは、バーテンダーがメクレマが酒の注文をするのを待っていた。今回は、メクレマの指示を辛抱強く待っていた。親指と人差し指に計量グラスをはさみ、アブサンのボトルを右に、メクレマのグラスを左に置いて。メクレマは5本の指を出した。とるべき態度は、悲しみや後悔のたぐいではなかった。底なし沼のような究極の無関心が求められた。グラスの中で酒が跳ねた。
だいこくかずえ訳
原典:『THE WAITING』by Martin Egblewogbe
(2020, lubin & kleyner)